氷(雪)がとけたら...

2019年7月25日

1989年2月20日、私は宮崎市の県自治会館で、当時日本教育学会の会長だった大田堯氏の講演を聴いていた。講演の中で、「雪がとけた何になるか」という理科のテスト問題に「春」と答えた児童がいたことが紹介され、大田氏は次のように話を続けた。

 

「なんて雄大な答ですか。低学年の子どもが大自然現象を、雪がとけたら春になる、というような答は、実にスケールの大きな答だと、場合によっては二重丸を差し上げてもいいんです。残念なことにこれにはペケがついている。先生ってなんてみみっちいんだろうと私は思います。自分の思っている事と合わないと丸をくれないんですから。」

(講演記録より引用)

 

この「雪がとけたら…」の話題は、もともと朝日新聞の家庭欄に掲載された記事が「天声人語」(1980年2月10日)であらためて取り上げられたことから全国に広がったようだ。

 

「…略…。氷が解けたら何になりますかという問いに、たいていの子は『水になります』と答えた。むろん、これは正しい。ところが、ひとりだけ『春になる』と答えた子がいた。みなが一斉に同じ方向に考えを向けていた時、その子だけは別の方向へ頭を働かせていたのだ▼『水になる』を〇とするテストでは、春になるとか、ぬかるみになるとかの答えは×になる。答えが一つあって先生がそれを隠している。生徒は先生の考えている正解を探りあてようとする。そういうクイズ番組のような教室では、みなが考えもつかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力は育ちにくい。…略…。」

 

原文は、「雪がとけたら…」ではなく、「氷がとけたら…」である。ところが、現実には「氷」よりも「雪」のバージョンのほうが世間には広まっている。おそらく「雪」のほうが「春」と結びつけやすかったからであろう。実は、これに酷似した話は、産経新聞の「産経抄」(1992年2月28日)でも取り上げられている。

 

「『氷がとけたら〇になる=〇の中に字を入れなさい』という試験問題で、大多数の子は『水』と答えて正解だったが、一人だけ○の中に『春』と書いた。この答えは間違っているのか。▼昨日の本紙コーヒーブレーク欄に寄せられた一文に、思わず氷ならぬほおがゆるんだ。定型や紋切りや科学的常識にとらわれることのむなしさ、あるいはおかしさ。それもさることながら、氷雪に閉ざされた北国の子の、激しい春待つ心に二重マルをつけたくなる。…略…。」

 

大田氏、天声人語、産経抄のいずれの論調も共通している。個人(子ども)の自由な発想を尊重しない定型化された学校教育への批判、教師のみが正しい答えを所有・承認するという正答主義への批判である。こういう論調は世間でも歓迎されるようである。

 

それに対して、呉智英氏は上記の産経抄を取り上げて次のように言う。

 

「たかだかコドモの謎々遊びに、何をもっともらしく感心しているのだろう。…略…。『氷がとけたら(春)になる』は、珍問奇問、呆問愚答ではないのか。…略…。しっかりした基礎学力とは、『氷がとけたら(水)になる』と解答する力のはずではないのか。」

 

「『定型や紋切りや科学的常識にとらわれること』が『むなしさ、おかしさ』に直結していると、現在ほど広く強固に信じられている時代はない。猫も杓子ももちろんサルも、口を開けば、独創性、独創性、独創性…。何が、どう、何故に、独創的なのか、まともに考えることもなく、独創的と言いさえすればすんだ気になる。その結果が、コドモの謎々に大仰に感動する醜悪さなのだ。」

(呉智英『サルの正義』双葉社、1993年)

 

学校教育への批判はさまざまな視点からなされてよい。この「氷(雪)がとけたら…」の話題についても、視点を変えていけば、批判は無数に出るであろう。

 

私は、学校教育批判以前に、この話題やその取り上げ方自体に多くの疑問を感じる。

 

この話題はもともと小学校の理科のテスト問題であることを前提にしている。

 

とすると第1に、「氷(雪)がとけたら何になるか」という理科のテスト問題で「春」を正解にする(ことを主張する人たちにとっての)根拠は何なのか。氷(雪)がとけたあとに起こる自然現象を挙げているから、という根拠であれば、「水蒸気」でも「ぬかるみ」でも「川」でも「夏」でもよいことになる。それらは無差別に(ひとしく)正解なのか。

 

第2に、「水」と答えた児童と「春」と答えた児童を同じく正解にするということ(を肯定する人たち)は、それぞれ別の基準で評価する(ことも肯定する)ということである。同じテスト問題でありながら、氷(雪)自体が変化すると何になるのかという問いと、氷(雪)がとけたあとには何が起こり得るかという問いの2つの意味を持つことになる。そのようなテスト問題は適正な問題なのか。

 

第3に、理科のテスト問題で「みなが考えもつかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力」や「定型や紋切りや科学的常識にとらわれ」ない力、みんなとは「別の方向へ頭を働かせ」ることを評価するということは適切であるのか。適切であるとすれば、テストの前にそのことをすべての児童に伝えておくべきではないか。どう伝えるかは大問題であるが、少なくともそれをしなければ公平ではない。

 

第4に、児童の解答が「雄大な答」であるかどうか、あるいは、「スケールの大きな答」であるかどうかを誰がどういう基準で判定するのか。仮に教師にそれを判定できる能力があるとしても、それをわざわざ理科のテスト問題で判定する理由はなにか。

 

上述の疑問は、どちらかといえば、私にとっては後付けに近い疑問である。より根本的な疑問がある。例えば、呉智英氏は、次のような疑問も指摘している。

 

「今、産経抄を読んで新たに思うのは、『氷がとけると』の珍問愚答が本当に実在するのか、ということだ。この珍問愚答の話、どうもいんちきくさい。珍問も愚答も、どこかわざとらしい。そうたびたび同じ珍問が出題され、そうたびたび同じ愚答が出るものだろうか。」(呉智英、同上書)

 

呉氏の疑問とも関連するが、私が感じる疑問はより現実的だ。それは、「氷(雪)がとけたら何になりますか」といったようなテスト問題をつくる小学校教師がいるとは到底思えない、ということである。

 

氷(雪)自体が変化すると何になるのかということを問うテスト問題であれば、通常の日本語(助詞)の用法を知っている教師であれば、「氷(雪)はとけると何になりますか」と問う。子どもが混乱しないように「が」ではなく、「は」を使う。「は」を使えば、「春」という解答も出てこない。(二杉孝司「授業論壇時評 雪がとけると何になる?」『授業づくりネットワーク』No.19、1990年)その使い分けすらできない教師は、テスト問題どころか、どんな教科の授業もまともにはできないはずだ。

 

学校や授業のあるべき姿、子どもたちに本当に身につけさせたい能力、学習成果の評価の在り方。こうした「望ましい教育の在り方」論は大いに議論されるべきだ。しかし、学校のテストでは最低限(それに正解できるかどうか別にして)、子どもたちが「どう答えてよいのかわからない」と思ってしまうような問題(文)は避けなければならない。それは教育行為の大原則である。仮に「春」と答えてくれる子どもの発想が望ましいとしても避けなければならない。教師にとって、問題づくりの原則は「望ましい教育の在り方」論と同等な重要度をもつ。もちろん、テスト問題を目の前にしている子どもにとっては、前者のほうがはるかに重要である。

 

教職をめざす学生たちにも、現実の教育行為を統制している有効な原則についておおいに学んでほしいと願っている。教育現実の理解があってこそ(それを肯定するにせよ否定するにせよ)、理想への希求も高まり、その現実化の可能性も高まるからである。

 

臨床福祉学科 兒玉 修

ふだんのくらしのしあわせ

2019年7月17日

こんにちは。臨床福祉学科の山﨑です。

大学の講義では、「地域福祉」を担当しています。

「地域福祉」という言葉は2000年に社会福祉法が改正され、はじめて法律に明記されました。

多くの方々は、生まれ育った地域や住み慣れた家で最後まで暮らしたいと願っています。それを実現することが、地域福祉の役割です。

地域福祉は「住み慣れた地域社会で、家族、近隣の人々、知人、友人などとの関係を保ちながら、誰でも自分らしく、地域の一員として普通の暮らしを送ることができるような状態を作り出していくこと」です。また、「ふ・く・し」とは、「ふだんのくらしのしあわせ」を実現することではないでしょうか。

さて、「ふだんのくらしのしあわせ」とはどんな暮らしでしょうか。特別な暮らしではなく、普段の暮らしとは、どんな暮らしでしょうか?

私は、ソーシャルワーカーを目指す学生にとって、市井の人たちの当たり前の暮らしに寄り添い、その人らしい生活を理解できることが、高齢者や障害者の方々の生きる力を支援するうえで、大切な資質だと考えています。

今回は、私が「月刊住民流福祉」(2013)に投稿した拙稿を紹介します。「わが母は一人暮らし上手」として母の生活を紹介していますが、地域で生活する高齢者と息子夫婦の関わりの中で、地域で自分らしく生きるとはどんなことか、一考していただく素材になればと考えます。

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わが母は一人暮らし上手

宮崎市 山﨑睦男

母、84歳、3年前に父を亡くし、現在、実家に一人暮らしだ。

多少、耳が遠いが、都合の良いことはよく聞こえるらしい。持病の糖尿病を抱えるも、地域の人たちに支えられ、元気に暮らしている。

息子の私は57歳、実家から車で1時間程度のところに、妻と2人暮らし。共働きで育てた、一人息子は県外で就職。来るべき老後の支え手には期待薄の予感あり。

母の暮らしは、父の仏壇へ朝食を供えることから始まる。めずらしいものが手に入ると、仏壇へ上がる。夜には晩酌を欠かしたことがない仏さんである。朝食を遅めにとり、庭の草取り、家庭菜園が目下の日課になっている。テレビはたまに見るが、昼間はせわしく、小さな体で動き回っている。

地域では民生委員さんや“見守りさん”が、時折訪ねていただき、見守りの対象となっている。また、ご近所の友人たちから、ちらし寿司や煮しめ等、夜の総菜が届く。時には母から、お返しに米や菓子を届ける。物々交換がご近所づきあいの極意らしい。

母の生活を観察すると、幾つかの一人暮らしの極意が見えてくる。

① 父とのつながりを大切にしている。

② 困った時には、ご近所に助けを求める。

③ 頂き物は、お返しを忘れない。

④ 体を動かす

⑤ 無駄を省く。物を大切にする。

⑥ メモをする。日記をつける。

⑦ 不在の時には、自分の居場所を明らかにしている。

⑧ 見守られているが、困っている人は見守る。

⑨ 自治会の役割を果たす。

こうした“極意”は母が一人で生きていくため、地域に果たしている役割でもある。

そして、その極意は息子の私にも課せられる。

母の日常の暮らしに距離を空けている、息子の役割である。

そのひとつは、ご近所のあいさつ回りである。普段、お世話になっているご近所の方に、「今度、帰るときにあいさつお願いね!」「誰それさんから、いただき物したから、お礼お願いね!」、電話口から母の指示が飛ぶ。スーパーでは「あの人、民生委員さん………」、ご近所で葬式でもあると、通夜や葬式に伺わなくてはならない。それは時に、妻の役割でもある。息子の自分にとっては実家であり、ご近所には昔馴染みの人もいるが、母がご近所付き合いしている方々の名前までは、心もとない。しかし、嫁は一人ひとりの名前を覚えている。これが、嫁の極意かと、感心させられる。

私を頼ってくれているには違いないのだが、母にとっては、息子と嫁が時折、地域の人たちと関わってくれることが、心地良いのだと思う。

時に、こまごまとした依頼もあり、親子喧嘩もするが、母とご近所のネットワークに私がつながることこそ、母が私に課した役割なのだと思う。そして、今後、母の介護が必要になった時、ご近所のネットワークの中で、暮らし続ける母の希望をかなえてあげることが、次の私の役割である。

(月刊住民流福祉、2013/10月号)

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今、「地域共生社会」の実現が地域福祉の課題として示されています。

「地域共生社会」とは、「人と人、人と資源が世代や分野を超えつながることで、住民一人ひとりの暮らしと生きがい、地域をともに創っていく社会」とされています。とりわけ、地域に生きる住民として、多様な価値観を理解し合い、「支え支えられ」の関係を築いていくことが求められています。

そのような中にあって、学生には、どんなに重い障害や生活課題を抱えていても、その人の価値観や生き方、人としての権利を理解し、「ふだんのくらしのしあわせ」を支援できるソーシャルワーカーに育って欲しいと願っています。

 

坂本冬美さんのこと

2019年6月24日

これまで何人かの編曲者について書いてきました。編曲の仕事は,元となる曲があって,歌い手をいかに引き立てるかが力量の見せ所とも言えると思います。オリジナルや持ち歌は自分の歌ですから問題はないでしょうが,他人の歌だと難しいことになりそうです。ジャンル分けすれば演歌歌手になるかもしれませんが,坂本冬美さんが『Love Songs』というCDのシリーズを発表しています。いわゆる他人の歌をカバーした作品集です。大ヒット曲からマイナーな作品,歌謡曲からフォークなど多彩な選曲です。坂本冬美さんという歌手については,大晦日の『紅白歌合戦』で歌う曲を聞いて,上手い歌手だなぁという程度の認識しかありませんでした。数年前のある日,レンタルCD屋さんでCDを眺めていたら,ヒット曲を網羅している『Love Songs』が目につきました。手に取ってみると,担当している編曲者が若草恵・萩田光雄・船山基紀という3人の名手だったので,借りて聴いてみました。結果は,期待を裏切らない出来でしたので,他のCDも借りて聴き,最終的には購入してしまいました。

さて,その中で編曲を味わうという観点からお薦めしたいのが,ちあきなおみさんが歌った「喝采」(写真左)とBOROさんの「大阪で生まれた女」(写真右)です。

 

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「喝采」はちあきさんの歌唱で人口に膾炙した作品だけに編曲も難しかったろうと思いますが,若草恵さんのアレンジはゴスペル風の合唱を配して,ちあき盤とは違う新たな生命がこの曲に宿ったように思います。まったく表舞台から姿を消してしまったちあきさんの「喝采」も素晴らしいですが,坂本さんの作品もお気に入りです。

萩田光雄さんが編曲した「大阪~」は一聴して,啞然,愕然,呆然。「え~,こんな編曲あり!?」と思いました。クラシック(バロック)の旋律が流れ出したのです。まるで,BOROさんはこの曲を下敷きにして作品を書いたのではないかと思うくらい,ピッタリとはまった,違和感のないできでした。バロックの作品名は末尾に記します。

ちなみに,3人の編曲者の作品で私が好きな曲を挙げるとすれば,若草恵さんは研ナオコさんが中島みゆきさんの作品を歌った「かもめはかもめ」,船山基紀さんは五輪真弓さんの「時の流れに~鳥になれ~」です。萩田光雄さんはヒット曲がありすぎて絞りきれませんが,久保田早紀さんの「異邦人」は印象に残っています。

 

さて,教員免許取得希望の学生たちは5月から中学校や高校で教育実習に行っていますが,まもなく多くの実習が終わり大学に戻って来ています。7月31日には実習報告会を予定しております。実習を通して,一回り成長した姿を見せてくれるのではないかと期待しております。

臨床福祉学科 長友でした。

バロック作品名 「パッフェルベルのカノン」

プレゼンテーション

2019年5月29日

こんにちは。臨床福祉専攻介護福祉コースの清水です。

今日は、3年生の授業を紹介します。

 

3年生は春休みに介護福祉実習(第2段階)で特別養護老人ホームに実習に行ってきました。

現在は、介護コースの授業の中で、その実習の振り返りを行っているところです。

その振り返りの一つとして、パワーポイントを使って担当した利用者の発表をしました。

 

発表中は、声の大きさや目線、ジェスチャーを使用するなどプレゼンテーションの技術を駆使して、上手にできていました。さらに、パワーポイントには図や表を使い、随所に工夫が見られました。

 

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聞いている人の立場に立ってプレゼンができると、人に伝わるプレゼンができるようになります。学生同士で発表を聞き、評価もお互いで行いました。

 

3年生になるとこのように授業の中で、何かを発表する機会が増えてきます。

これからが楽しみな3年生です。

 

7月14日(土)のオープンキャンパスには、3年生も参加する予定です。

授業の様子など、ぜひ質問してみてください。

先達はあらまほしき事なり

2019年5月20日

クラシックのコンサートに行く場合,演奏曲目や指揮者・演奏者,そしてオーケストラなどの演奏団体など,決定要素は人様々であろうと思います。私の場合は,まず演奏曲目で決める場合が圧倒的です。次いで,日程や料金,会場所在地などを考慮します。ベートーヴェン崇拝者の私としては,当然彼の作品が中心となります。交響曲だとまず食指が動きます。ピアノ曲ややヴァイオリン・ソナタ,室内楽などは料金,会場で左右されます。

ベートーヴェン以外の作品の場合,演奏曲目で選びます。今回で24回を迎える『宮崎国際音楽祭』の演奏会に5月12日に行きました。


 

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音楽好きの私でも,この音楽祭に足を運ぶ機会は少なく,今回で3回目です。その理由は,プログラムの内容であったり,聴きたいと思うコンサートのチケットが手に入らなかったり,日程の問題などです。今回はモーツァルトの「ヴァイオリン,ヴィオラとオーケストラのための協奏交響曲」の第2楽章を聴くためにチケットを購入しました。もう1曲はマーラーの交響曲第4番です。プログラムを見た時,渋い選曲でヴァイオリンが若手の三浦文彰さん,ヴィオラと指揮がピンカス・ズーカーマンとは言え,早々と売り切れになることはないだろうと予想しましたが,実際私の周囲も空席が目立ちました。

ややマイナーな曲目のモーツァルトをなぜ聴きたかったのかというと,大部以前になりますが,NHKの朝のラジオ番組の中にヴァイオリニストの千住真理子さんのコーナーがあり,その中で紹介されたのがこの曲の第2楽章でした。憂いを帯びた美しい旋律が印象的で,すぐに注文・購入しました。


 

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その後折に触れ聴いていたのですが,ある時,モーツァルトの他の曲を聴きたくなって所有のCDを探したら,何とその中に上記の曲が収録されていました。


 

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つまり,千住さんの紹介以前に私はその旋律を耳にしていたことを知り,愕然としました。その時私の頭に去来した古典が兼好法師の『徒然草』第五十二段の「先達(せんだつ)はあらまほしき事なり」でした。最初は聞き流していた旋律が,千住さんの解説で光り輝くものとして印象に残ったのです。そう考えると,私たち教員の仕事は学生(生徒)たちにとって,先達として注意を喚起し,ポイントを指摘して,頭や心に刻みつけることなのだと再認識した次第です。

なお,この音楽祭で私が聴いた最初はブラームスの『弦楽六重奏曲第2番』とシューベルトの『弦楽五重奏曲』でした。当初発表されたプログラムは第1番ということで,その第2楽章を聴きたくて行ったのですが,当日のプログラムでは2番に変更されており,がっかりしたのを覚えています。「演奏曲目は変更される場合もあります」という告知もあるので,遺憾ともしがたいのですが,残念でした。

今後,何回コンサートに行けるかわかりませんが,生で聴きたい曲にビゼーの『交響曲 ハ長調』があります。17歳の時の作品で,非常に明るく若々しい曲です。

臨床福祉学科 長友道彦でした。

ノーマライゼーションと住環境

2019年5月 9日

本学も10連休でした。連休が明けて、今週から本格的に講義が始まります。

 

臨床福祉学科では、『バリアフリー住宅』『福祉施設の生活空間』『福祉のまちづくり』など、福祉住環境をテーマにした科目を開講しています。連休明け最初の講義は『ノーマライゼーション社会と住環境』がテーマでした。

 

『ノーマライゼーション』という言葉は、数年前に国立国語研究所が難解な外来語として「等生化」という日本語訳が提案し、話題となりました。『共生』という言葉が用いられている場面もよく見かけます。ただ、本来の意味を十分に伝え得る日本語がないので、私の講義では訳さずに『ノーマライゼーション』として話しをしています。

 

『ノーマライゼーション社会』とは簡単にいうと「誰もが平等の権利を持った社会」ということです。例えば、病院の病室を想像してください。私たちが普段生活している部屋と比べて過ごしやすい空間だと思いますか?「病室だから生活空間とはちがう」という人もいるかもしれません。しかし、ひと昔前の老人ホームは病室のような4人部屋の居室がたくさんありました。少しずつ個室化が進み、快適さが高まっていますが、まだまだ「生活空間」といえる施設は少ないと思います。高齢となり自宅での生活が困難となれば、老人ホームに転居することもあります。その時に、これまで生活してきた空間とはかけ離れた居室で過すことは『ノーマライゼーション』と言えるでしょうか。

 

臨床福祉学科の学生には、『ノーマライゼーション』という言葉の意味をよく学んで、誰もが平等に生きていける生活空間を考えることができる福祉専門職になってもらいたいです。

 

臨床福祉専攻 三宮基裕

 

 

授業のはじまり

2019年4月23日

いよいよ4月8日から授業が始まりました。

今回は、新1年生の学部共通で設定されている「ボランティア活動」の授業風景を紹介します。この科目は、社会福祉学部はもちろん、薬学部、保健科学部、生命医科学部4学部の学生が合同で受講しています。


 

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この授業では、ボランティア活動の基本原則や役割を学ぶとともに、地域社会に貢献する心を育み、身近な生活の課題や地域社会問題の理解と社会参加のための基礎的な力を身に付けていくことを目指しています。


2回目の授業では、科目担当教員の臨床福祉学科山﨑准教授からボランティア活動記録の書き方や年間通してどんなボランティア活動の種類があるのか紹介されました。

延岡市社会福祉協議会のボランティアセンター職員にも来ていただき、ボランティアセンターの活動紹介、保険加入手続きのお話しをいただきました。


 

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また、スポーツ健康福祉学科の安原教授より「のべおか子どもセンター事業のボランティア活動の状況」、そして4年生から「子ども食堂での活動状況」も紹介されました。


 

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学生は、この1年間かけて10回以上のボランティア活動を行います。


「地域がキャンパス」となり、学生は、延岡市をはじめとする地域の自然や人との出会いから多くの事を学び、学生自身が社会の一員として果たすべき役割を考え、専門職への道を一歩踏み出すことになるでしょう。


大学のボランティアセンターでは、学内3か所にボランティア要請情報を掲示し、全学生を対象に活動への参加を呼び掛けています。


 

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主体的な実践活動をとおして、自己肯定感や社会的有用感について学んでいただければと思います。 

臨床福祉専攻/ボランティアセンター副センター長 川﨑

平成最後の新入生歓迎会

2019年4月20日

今年も恒例の新入生歓迎会を開催しました。

<過去の歓迎会の様子はコチラ>

『新入生歓迎会及び交流会』2016年5月18日

http://www.phoenix.ac.jp/faculty/social_welfare/cw_blog/entry/2016/05/002899.html

『新入生歓迎会』2015年4月13日

http://www.phoenix.ac.jp/faculty/social_welfare/cw_blog/entry/2015/04/002417.html

『新入生歓迎カレーパーティー〈懇親編〉』2014年4月17日

http://www.phoenix.ac.jp/faculty/social_welfare/cw_blog/entry/2014/04/001644.html

 

昨年に引き続き、今年も学内での開催です。福祉専攻・心理専攻の3年生が中心になって企画してくれました。

 

午前中はレクリエーションです。昔懐かしの『手つなぎ鬼』と『ジャンケン列車』をしました。教員も一緒に参加しましたが、けっこう走り回り、へとへとです。学生は元気いっぱい。若いって素晴らしい。

 

 

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賞品もでて盛り上がりました。

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学生食堂で昼食を食べて、午後は学内の散策を兼ねたクイズラリーです。なかなか難しい問題も出題されていました。みなさんは分かりますか?

Q 次の専門職のうち、一番人数が多いのはどれでしょう?

1 社会福祉士

2 介護福祉士

3 精神保健福祉士

 

クイズラリーの成績優秀グループにも景品が出ています。景品は教員や学生が持ち寄った“日常生活に役立つもの”です。一人暮らしの学生にはうれしい贈り物になったことでしょう。


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最後は、企画・準備・運営をすべて仕切ってくれた3年生の挨拶です。本当にご苦労様でした。来年は「令和」最初の懇親会。新入生はお迎えする番です。すべての学年が懇親できる良い伝統を受け継いでほしいです。


 

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臨床福祉専攻 三宮


 

手話-言語へのもう一つの入り口

2019年4月 8日

福祉専攻教員の上農です。大学では「哲学」「人間論」「障害児教育」等の講義をしてきました。研究分野としては聴覚障害児を対象とした医療社会学と臨床哲学の問題に取り組んでいます。今回は私の仕事に深い関係のある手話の話をしたいと思います。

4月3日の朝のニュースで新しい元号「令和」の手話表現が早速決まったことが報じられていました。また、4月1日に新元号が発表された際のテレビ放送で、菅官房長官が掲げた「令和」のパネルと手話通訳者のワイプ(小窓映像)が重なってしまったことも聴覚障害者の間では話題になっています。事前の周到な準備があれば防げたトラブルで、残念ながら障害者に対する情報保障への認識に課題を残しました(それでも、手話通訳者が付いているだけでも以前と比べれば改善されているわけですが)。

このような形で、私たちの暮らしの中にも時折、手話の存在が姿を現すことがある、そんな時代になっています。中学や高校で手話の基礎を少しだけは学んだ人も増えてきました。


さて、皆さんは手話について、どんなイメージを持っているでしょうか?

(1)手話は万国共通なのではないか。だから、手話を使う聴覚障害者は外国に行っても話が通じて便利だろうな。

(2)しかし、手話はジェスチャーのような身振りだから、簡単なことは表現できても、複雑な話は手話では出来ないのではないか。

(3)聞こえない子どもたちはどうやって学校で勉強しているのだろうか。やはり、聾学校では手話を使って授業しているのだろうか。


こんなふうに思っている人は多いのではないでしょうか。しかし、これはすべて事実とは異なる誤解です。どんなふうに誤解なのかということを以下に説明しますが、その前に、そのこととの関連で、聞こえない人たちを「中途失聴者」「難聴者」「聾(ろう)者」という三つの集団に分けて考える場合があることについて話しておきます。

中途失聴者とはある年齢から聴力を失った人たちで、それまでは聞こえていた人たちです。難聴者とは全く聞こえないわけではなく、ある程度は聞こえる人たちです(ただし、その聴力の程度は様々です)。聾者とはほとんど聞こえない人たちのことです。聾という漢字には「つんぼ」という差別的な意味もあるため、「ろう」と平仮名で書くことが多いのですが、龍の耳は聞こえない代わりに、その角に神力が宿っているという中国の神秘的な故事があるため、この漢字をそのまま使う人もいます。

さて、誤解についての話です。

(1)日本、アメリカ、フランス、イタリアには独自の手話があり、それぞれ異なっています。日本の手話とアメリカの手話が通じ合うことはありません(ただし、日本と韓国の手話、アメリカとフランスの手話には類似した部分はあります。それは歴史的な事情があるからです)。例えば、アメリカ人の聾者が手話で講演する場合、それをまず一旦、日本の手話に通訳し、さらに、その日本の手話を音声日本語に通訳するという二重通訳が必要です。

(2)日本で使用されている手話には対応手話と日本手話という二種類の手話があり、それぞれ性質が違います。対応手話は日本語を手話単語で部分的に表したもので、音声が伴うことが多く、主に中途失聴者や難聴者が使っています。日本手話は日本語とは異なる独自の文法構造を持っていて、発話を伴わず、聾者によって使われています。

日本手話は独自の文法を駆使して、日本語に劣らぬ複雑で精緻な内容を表現できる自然言語です。実際、聾者同士は日本手話によって、聞こえる人間と何ら変わらない複雑で豊かな意思疎通を図って暮らしています。手話には抽象的な概念を表す語彙もちゃんとあり、「日本手話学会」という学術組織では言語学の専門的な議論も日本手話で交わしています。

(3)聾学校では長い間、手話は禁止されていました。音声言語を聞こえない子どもたちに習得させる「口話法」という教育が採用されていたからです。しかし、十数年前から徐々に手話も取り入れられるようになり、今では口話と手話が混在した状況になっています。ただし、それでも聞こえない子どもたちが日本語を習得するのは難しく、教科学習にも大きな課題を残しているのが現実です。


手話ということばの仕組みを知ることで、言語自体の機能や構造を再認識させられる、つまり、聞こえる人間が無意識で使っている自分たちのことばやコミュニケーションについて改めて考えさせられるという効用が手話にはあります。手話というと、何かすぐに福祉との結びつきが浮かびますが、手話には「ことばとは何か」「コミュニケーションとは何か」という人間にとっての根本的問題を考える“入り口”としての意味もあります。私も言語学や文化人類学、哲学の問題としての興味から手話の世界に入りました。

 

手話に関心のある人に勧めたい映画と本を紹介します。映画は「愛は静けさの中に」という作品です。主人公の聾女性を本物の聾者であった女優マーリン・マトリンが演じていて、聾者では初めてアカデミー主演女優賞を受賞しました。この映画は、愛し合う聾者と聴者が互いを真の意味で「理解する」ことの難しさとその葛藤を正面から描いています。私たちが陥りやすい“安易な善意”というものを再考するきっかけになるでしょう。


 

 

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本は『わが指のオーケストラ』(全4巻)(山本おさむ)というマンガです。この作品を読むと、日本の聾学校において、なぜ長い間、手話が禁じられてきたのか、その歴史的経緯が分かります。また、聞こえない人間にとって手話がなぜ必要なのかという最も大切な問題を的確に訴える点において、おそらくこのマンガ作品以上のものはありません。


 

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もう一冊、『言葉のない世界に生きた男』(スーザン・シャラー著)を挙げておきます。


 

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福祉や医療の勉強は現実的には資格取得のための知識の学習になりがちですが、福祉や医療が職業の対象にする障害者や高齢者の存在の根底、根源には、哲学や言語学が取り扱ってきた本質的な問題が密接に係わっています。大学で「学ぶ」とは、本来、そのような学問の深い意味に少しでも触れて、大人になるということではないかと私は考えています。

入学式

2019年4月 6日

こんにちは、臨床福祉学科の稲田です。 

4月6日(土)に平成最後となります、九州保健福祉大学の「入学式」がありました。
天気もよく、桜も満開(少しずつ散り始めていますが…)で、お祝い日和でした。

新入生の皆さま、そして保護者の皆さま「ご入学おめでとうございます」

 

 

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学生は、まだ緊張していますが、これから少しずつ友達をつくり、大学生活にも慣れてきてほしいものです。
学生にとって、これからの4年間が充実した時間になりますように。

 

臨床福祉学科のブログは、学生の様子や、教員の思いや趣味(なんでもあり)を紹介していきますので、時折見てください。

来週は、新入生歓迎会の様子などお知らせします。

 

臨床福祉学科が

どんな学科なのか?

どんな勉強をしているのか?

どんな先生がいるのか?

どんな催しがあるのか?

 

臨床福祉学科のことがよくわかります。

 

今後とも、臨床福祉学科ブログをよろしくお願いします。

 

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