教員の活動

我回來了!(ただいま!)

2020年5月11日

白日依山盡  はくじつ、やまによりてつき

黃河入海流  こうが、うみにいりてながる

欲窮千里目  せんりのめをきわめんとほっし

更上一層樓  さらにのぼる、いっそうのろう

 

【日本語訳】

輝く太陽が、山に沿って沈んでいき、

黄河は海に向かって流れている。

この雄大な景色を、千里先まで見渡したいと思い、

更に一つ、上の階へと楼閣を登った。

 

中国の有名な詩人、王之渙(おうしかん)という人の「鸛鵲楼(かんじゃくろう)に登る」という詩です。まさに大学とは、この楼閣のような場所であるということができましょう。自らの将来を俯瞰し、目標に近づくために、着実に一歩一歩登って行って欲しいと思います。

 

申し遅れましたが、自己紹介させていただきます。

私の守備範囲は主に次の三つです。専門分野は教育学で、主に教育実習に関わる科目を担当しております。実務的には、若い頃に、関東地方の政令指定都市の正職員を経験しましたので、公務員試験の対策にも関わっております。また、大学時代には中国語学習に熱中し、のちに中国を舞台に研究や実務経験を積んでまいりましたので、中国語も担当しております。これらの分野に興味がある学生さんは気軽に声をかけてください。

臨床福祉学科は、私が十六・七年前に本学に赴任したとき、最初に所属した学科です。ご縁があって、ふたたび、思い出深い学科で教えることができるのを、とてもうれしく思っております。どうかよろしくおお願いいたします。

登坂 学(とさか・まなぶ)

遠隔授業とマスク作り

2020年5月 7日

こんにちは、臨床福祉学科の清水です。

大学では、4月27日~5月1日の間に学年別に遠隔授業と新型コロナウイルス感染予防等の説明会を開きました。また、各自が自宅に戻り、短時間でしたが遠隔の模擬授業も行いました。

 

200507-01.jpg

 

200507-02.jpg

 

久しぶりに皆さんと会えましたが、今までのような対面授業は難しい状況です。

 

5月7日より遠隔授業が始まります。

皆さんと授業でお会いできるよう、教員も遠隔授業に向け準備を進めています。

 

学生の皆さん、一緒に乗り越えていきましょう!

 

清水は、授業がお休みの間、布マスクを大量に手作りしていました。

実は、介護福祉コースの生活支援技術演習(家事Ⅱ)という科目では、ミシンや裁縫を教える時間があります。

今回は、授業が始まったら「マスクを作る」ための教材づくりの一環として、家政実習室に眠っていた布を利用し、教員と布マスクを作成していました。

しかし、なかなか授業が開始できず、学生へ配布をしようとの声も挙がり、大量のマスクの作成が始まりました。学生全員に配布するとなると、物資や人手が足りず、布の提供や型どり、ミシンでの縫製、洗濯、アイロンがけ、ゴム通し等の作業を、多くの教職員(の家族にも)、臨床福祉学科の学生さんにお手伝いいただき、マスクができました。

 

200507-03.jpg

 

臨床福祉学科の皆さんには、説明会の来学時に配布しました。使い心地はいかがですか?

 

今はサージカルマスクをお店で見かけるようになってきましたが、高額のものが多いです。

また、今後の学外実習等ではマスクの着用が必要になってきます。

是非、サージカルマスクは実習用に確保し、普段使いに布マスクを使用してください。

それではまた、授業でお会いできるのを楽しみにしています。

『宇宙戦艦ヤマト』と『第九』

2020年4月28日

新型コロナ・ウイルスの感染に終息の兆しが見えません。1月のブログ『生誕250年』の時点では,オリンピック・イヤーなどと書きましたが,延期されました。今考えると「脳天気」だったと反省しております。前回案内した学科のイベントも実質的には見送らざるを得ませんでした。大学での大きな儀式である学位記授与式(卒業式)も入学宣誓式(入学式)も中止を余儀なくされました。さらに,授業も当初の予定は,4月7日からでしたが,4月20日へ延期,さらに連休明けの5月7日へ再延期されております。そして,通常の対面授業が困難になった場合を想定して,「遠隔授業」の準備も進められております。

「春の選抜高校野球」をはじめとして,高校生たちの全国大会,アスリートたちの大会も軒並み中止・延期となっています。無観客でのプロ野球オープン戦・大相撲の春場所は普段は歓声で聞き取れない雰囲気が味わえるという声もありましたが,やはり選手・力士と観客の関係は相乗効果があるのではないかなぁと思って眺めていました。当然新聞のスポーツ欄も記事不足で,過去の話題となった出来事で編成する苦労が覗えます。

今回の新型コロナ・ウイルス問題に関して,音楽好きの一人として,残念な悔しい思いをしました。4月29日に福岡市で『宇宙戦艦ヤマト』の交響曲と組曲の演奏会(チラシ写真)が予定されていたのですが,中止になってしまいました。

 

宇宙戦艦ヤマト.jpg

 

交響曲は,故羽田健太郎氏が宮川泰氏のテーマを元に4楽章で作曲し,最終楽章はピアノとヴァイオリンの協奏曲風に仕上がっております。レコードでは聴いたことがあるのですが,生の演奏会を楽しみにしていただけに,まさに「コロナの奴め~」というところです。そう言えば,アニメの『宇宙戦艦ヤマト』は地球の危機を救うために宇宙に旅立っていったのではなかったかな?ちょっと皮肉な結果になってしまいました。

しかし,今新たな不安が頭をかすめています。それは,今年はベートーヴェンの『第九』を生で聴けるだろうか,ということです。合唱団の並びやオーケストラの配置は3密の2つに該当するし,ホールも密閉状態に近いかも知れません。練習時間のことを考慮すれば,心配です。

何とか,年末には高らかに歌い上げられる『第九』を楽しみたいものです。

コロナ・ウイルスの早期終息を祈りながら。臨床福祉学科 長友道彦でした。

生誕250年

2020年1月22日

2020年が始まりました。今年は、何と言ってもオリンピックが話題になっています。また,恒例の箱根駅伝も100年という節目が放送されていました。節目ということでは,私が崇拝するベートーヴェンの生誕250年にあたります(1770年12月17日~1827年3月26日)。今から50年前は当然ながら,生誕200年記念と銘打った大全集が発売されていました。と書きましたが,当時それを実感していた訳ではありません。なぜならば,今振り返って見ると私にとって当時のベートーヴェンの存在は今ほど大きな絶対的なものではなかったことに思い当たります。

ジャン・クリストフ.jpg

50年前は,大阪万博が開催された年です。三波春夫さんが♪1970年の こんにちは~♪と歌っていました(生誕200年が万博,250年がオリンピックと不思議な暗合ですね)。当時私は高校2年生でした。高校3年で大学受験に失敗し,3浪もしてしまいました。特に,2浪目の受験では入試に手応えを感じ,浪人中の下宿を引き払い駅留めで荷物を発送する準備を整えて合否電報を待ちましたが,結果は不合格でした。今年こそはという希望があっただけに,落胆・絶望・失意…の状態でした。そういう状態の時に出会ったのが,ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』でした。

ロランがベートーヴェンをモデルに描いた大作です。私が読んだのは,新庄嘉章訳の新潮文庫版(全4冊 写真1)でしたが,主人公ジャン・クリストフ(ベートーヴェン)の生き方に圧倒されました。新しい力が湧き起こるとともに,自分の将来に対する見方にも変化が生まれました。人の生き方に対する興味関心が強くなっていきました。当初希望していた学部は最後まで受験しましたが,歴史を学べる学部も受験して結局そこに落ち着くことになりました(第一志望学部は一期校・二期校含めて10戦全敗でした)。  

全集帯.jpg

この過程の中でベートーヴェンは,自分を蘇らせてくれた存在として大きなもの絶対的なものとなりました。最初に買ったレコードの全集がカラヤン指揮の交響曲全集でした(写真2)。辛い時や力・勇気が欲しい時は第3番「英雄」や5番「運命」・7番といった作品,心に癒やしが欲しい時は偶数番の曲を聴いていました。「第九」はそれらを超越する傑作です。その後,他の作品や演奏者のレコードを聴くようになり,現在に至っています。ベートーヴェンの存在が,ベートーヴェンの音楽があったからこそ,私は人生を何とか前向きに生きてこられたと思っています。だからこそ,前職を退いた時,ウィーンの彼のお墓にお礼に行ったのは当たり前のことだったのです(学科ブログ 2014年⒓月10日 「トイレの花子さん4」)。(ちなみに長女の名前は「第九」第3楽章,次女は「悲愴ソナタ」の第2楽章に触発されました。)

生誕250年を記念したCD全集(123枚組や85枚組)が発売されるようです。今買っても,聞き終えることもないだろうし,既に所持しているものと重複しているので,今回は買いません。もう少し若ければ,絶対に買うでしょうね。

節目の年と言えば,私たちの夫婦も⒓月で結婚40年を迎えます(ルビー婚とか言うそうですね)。 今年が良い年になりますように。

臨床福祉学科 長友道彦でした。

読書の冬休み

2020年1月 7日

新年が明け、今週から後期の授業が再開です。といっても2週間後には定期試験が始まるので、あとひと月もすれば春休みです。ただ、4年生は社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士の国家試験を控え、2・3年生の一部の学生は学外実習や実習に向けた体験学習があります。学生諸君は、年度末まで忙しい日々を過ごしています。

 

さて、今年度をもって臨床福祉学科をご退官される先生から、「もうしばらく教育の仕事に携わるでしょうから、参考にしてください」と年末に1冊の本をいただきました。今年の冬休みはその本を読んで過ごしました。

 

 

IMG_1353.JPG

加藤秀俊『独学のすすめ』文春文庫

 

1978年(昭和53年)に発行された本ですが、教育・研究に取り組む姿勢を考える上でとても参考になりました。そのなかでもとくに感銘を受けた部分を3つ紹介します。

 

①「「教育」というものの基本的な目的と意味は、ひとりひとりの個人に、人生に対する意欲をつちかうことにある。意欲ある人生を送ることのできる人間――そういう人間をつくることが教育の使命なのである。」(p.41)

 

20年以上、大学で学生の教育に携わってきましたが、最近は教えることばかりを考え、学生の意欲を高める意識が薄らいでいたように思います。「意欲を高める教育」を再認識させてもらいました。

 

 

②「自分のしごと、ということは、とりもなおさず、自分という存在のまわりに境界線をつくることだ。わたしのやることはここまで、ここから先はあなたのしごと――そんなふうに、生活のなかには、しごとの境界線がつくられている。しごとは「個人」と密着した「義務」になる。」(p.118)

 

これは文中の引用の言葉でした。この文章だけでは分かりにくいですが、要は「やるべきことを「仕事」と意識してしまうと、自分の担当部分しか取り組まなくなる」ということです。この意識が強いと、急な用事を頼まれたときに「なぜ、自分がしないといけないのか」という気持ちになってしまいます。「仕事」と境界線を引かず、自分のできることには積極的に関わるという気持ちで臨みたいと思いました。

 

 

③「学問とか知識とかいうものは、じっさいは茫洋(ぼうよう:広々として限りのない)としていて、どこにも境界線なんか、ありはしない。 ―中略― 切りわけられたひときれの羊カンを「学問」だと思いこみ、その「専門」にみずからを閉じこめてしまうのは、学者として、とんでもないカンちがいだ。」(p.184)

 

私は大学で建築学の勉強をしていたので、九保大で教育や研究をしながら「福祉は自分の専門ではない」と思っていた自分が、この一文を読んで恥ずかしくなりました。学ぶことに専門かどうかは重要ではない。学びたいことを学べばよい。最も基本的なことに気づくことができました。

 

20年以上も教育・研究に携わっていて、今頃、このようなことに気づき、とても恥ずかしい思いもありますが、この本に出合えて本当に良かったと思いました。

 

 

もっとたくさんの本を読み、学生たちにも「読んでよかった」と思ってもらえる本を紹介していきたいです。

臨床福祉学科 三宮 基裕

色々な再会

2019年12月 5日

少々大げさかもしれませんが、ふとしたことに「生きている喜び」を実感することがあります。11月23日に宮崎市のメディキット県民文化センターで,ベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』と交響曲第7番の演奏会がありました。韓国出身のチョ・ソンジンのピアノ,マレク・ヤノフスキ指揮のケルン放送交響楽団の演奏です(写真)。

 

写真1.jpg

 

チョ・ソンジンさんの演奏は9年前,彼がまだ16歳の頃にNHK交響楽団とショパンのピアノ協奏曲第1番を聴いて以来2度目です。その間,ショパン国際コンクール優勝など,めざましい活躍を続けています。特に彼の活躍に注目していた訳ではありませんが,その技術や表現に圧倒され嬉しくなりました。

休憩中に知り合いとばったり会って話をした後,自席に戻ろうとしたら,「長友先生」と女性に呼び止められました。「担任して貰ったYです」と名乗ってくれました。(最近は,教え子だと分かっていても,名前が出てこないことがあるので,これは助かりました)。Yさん。コンサートの会場だったせいなのか,修学旅行の際に,親戚の人が東急関係に勤めていて開館間もないオーチャードホールを案内するからと宿泊所からの外出を許可したことを思い出しました。そのことを話すと,「そうです,そうです」と喜んでくれました。2部の始まる時間が迫って来ましたが,同じ高校の男性と結婚して二人の子どもがいることを話してくれ,握手して別れましたが,私の方も嬉しい気持ちで席に戻りました。交響曲7番の演奏も素晴らしいもので,オーケストラの迫力に圧倒され,その余韻を胸に帰途につきました。

さて,ベートーヴェンの交響曲全集が出ると,食指が動きます。オンラインショッピングで,ユッカ・ペッカ・サラステという指揮者による全集(輸入盤)が出ていることの案内が来ました。オーケストラはWDR Sinfonieorchesterと書いてあります(写真)。注文して聴いて意外な発見がありました。全集を購入した場合,私は,3番の『英雄』から聴きます。その4楽章の冒頭の,通常ピチカートで演奏される部分が弓で演奏されていたのです。こうした演奏は過去に二人の指揮者が行っていました。ともにN響を振ったことのある,カイルベルトさんとマタチッチさんです。それ以後,この形の演奏を聴いたことがなかったので,驚くと同時に懐かしさすら覚えました。

 

写真2.jpg

 

さらに,WDR Sinfonieorchesterは,何と生で聴いたばかりの上述のケルン放送交響楽団のことだったのです。改めて偶然の面白さに自分自身驚いています。そしてCDの解説を眺めていると,ケルンはドイツ語表記でKöln,英語ではCologneだということにも気づきました。

11月23日のコンサートは私に音楽を聴く喜びだけでなく,教え子との再会や新しい知見を与えてくれて,ささやかな幸福感に浸ることができています。

臨床福祉学科 長友道彦でした。

トンネルを抜けると

2019年11月 8日

今年で32回目を迎える「北九州国際音楽祭」というイベントがあります。その存在を知ったのは,2012年のプログラムがきっかけでした。NHK交響楽団のコンサートマスターの篠崎史紀さんを中心とした特別編成のオーケストラによるベートーヴェンの交響曲第1番・第8番(この2曲は初めての生演奏で聴ききます),そして第7番というオール・ベートーヴェンを聴いたのが最初です。

今回も同じくオール・ベートーヴェンで,第2番(初めての生)・第4番,そして第5番『運命』というプログラムです(プログラム写真)。これでベートーヴェンの交響曲はすべて生で聴くことになるので,10月27日八幡へと向かいました。いつもの通り先頭の車両に乗ると,幸運なことに,そして久しぶりに前方が展望できる車両でした。運転席の後方が空席でしたので,勿論そこに坐りました。そこで気づいたこと(発見したこと)があります。まず,当然かもしれませんが,トンネルには名前が付いているということです。入口(出口)に注目していると,名前が確認できます。その一つに,「子洗」というのがあって,名前の由来が気になりました。


 

篠崎史紀.jpg

 

もう一つは,トンネルもすぐに出口が見えるものから,相当長いものまであります。長いトンネルは入ってしばらくは闇の中を走り,前方に小さな一つの点が見え,それがだんだんと大きくなり前方の風景が確認できて,そして,トンネルは終わります。

川端康成は『雪国』の冒頭で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と表現しました。私にはトンネルの入口では雪は無いか,あったとしても斑模様であった風景がトンネルを抜けたらまさに一面の雪景色に変じた驚きもあるように感じられます。

私は電車の前方の闇を見つめながら,(青春時代の漠とした不安はこういうトンネル状態なのかも知れないな)と考えていました。動いてはいるけれども目的・目標が見えない苛立ち,動いても動いても終点が見えないもどかしさ。そして,トンネルを抜けて広がる風景は入る前とさして変わらない風景への失望。自分は何のためにあの闇の中でもがいていたのか。

私は今だったら,次のように話すだろうな。「風景は変わらない風景ではなく,入口から動いてきた分だけ自分は変化しているはずだよ。ただ,まだその変化を意識できていないだけだよ,そのうちにきっと気づくよ。」

と,いうようなことを考えながら八幡へ向かったのでした。

 

さて,演奏会は総勢41名,曲によってはそれよりも少ない編成での演奏でしたが,わざわざ足を運んだ甲斐はありました。ステージを注意して見ると,交響曲ごとに弦楽器の演奏者の位置が変わったり,特に『運命』では第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが左右対称の位置配列になっていたり,篠崎さんの意図が感じられました。以前何かの音楽番組で,オーケストラ演奏中に指揮者に不慮の事態が生じた場合にコンサートマスターがその代わりを果たすということを聞いたことがあります。今回の演奏を聴いて納得できました。ただ,微妙な強弱やテンポの変化などは指揮者がいないと難しいだろうなと感じました。

アンコール演奏はありませんでしたが,開始前のプレ・ステージコンサートで,篠崎さんが編曲したベートーヴェンの『トルコ行進曲』なども演奏され大満足の秋の一日でした。

 

上で,川端康成の『雪国』を引用しました。門川町の門川ふるさと文化財団が「なつかしの名画劇場」という事業を行っています。昨年,今年と鑑賞しました。今年は岩下志麻主演『五辨の椿』,佐久間良子主演『五番町夕霧楼』,山本富士子主演『夜の河』そして岸惠子主演の『雪国』でした。映画の看板女優の総登場ですが,『雪国』に葉子役で出演していた八千草薫さんの可憐さが印象的でした。ご冥福を祈ります。

 臨床福祉学科 長友道彦でした。

ベートーヴェンはロック?

2019年9月25日

台風17号に伴う竜巻が延岡市に大きな被害をもたらしました。13年前には,特急列車が横転する被害もありました。前回の時には,当時の同僚のアパートの部屋も窓ガラスが散乱する被害がありました。幸い,本人は実家に帰省していて無事でしたが,部屋にいたら生命も危なかったのではないかという話でした。自然の猛威の恐ろしさを改めて実感し,防災だけでなく,減災ということもより現実的な問題として考えなければならないということを教えてくれました。ちなみに,我が家でも防災バッグを準備しております。

 

さて,私の好きな作曲家はベートーヴェンですが,この8月に2種類の交響曲全集を聴きました。1つは,あの久石譲さんがフューチャー・オーケストラ・クラシックスを指揮した全集(写真  久石譲),もう1組はアダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団(写真 アダム・フィッシャー)です。

 

久石譲.jpg

 

アダム・フィッシャー.jpg

 

今回の題の「ベートーヴェンはロック?」は久石さんの全集のキャッチフレーズ「ベートーヴェンはロックだ!」を借用しました。実際に彼がそう思っているのではなく,「クラシックを聴かない人たちにアプローチを」かけるために敢えて,刺激的な言葉を使用したということです。しかし,ベートーヴェンの交響曲の中のリズムは当時の人たちにとっては,斬新というよりも衝撃的なものであり,現在ある一定の年齢以上の人たち=別名高齢者にとってのプレスリーやビートルズの音楽との出会いと同じではなかったのかなと想像します。

久石譲さんについては宮崎駿監督のジブリ作品をはじめとした映画音楽の作曲家として有名です。私が彼の名と音楽性を知ったのもジブリ作品を通してです。以後,中古CD屋さんで彼のCDを購入して聴きましたが,その時点では映画音楽の作曲家という印象が強すぎて,それらのCDにさほどの感想は持ちませんでした。

数年前から1月号だけを購入している『レコード芸術』の広告などで,久石さんが『新世界』やベートーヴェンの交響曲もCDとして出していることは知っていました。しかし,購入するまでには至りませんでした。その理由は,CDの単価もさることながら,「片手間の(お遊びの)演奏ではないか」という先入観がありましたが,今回全集として発売されたことで,本気なのだと感じた次第です。今回,ベートーヴェンの交響曲を聴くにあたり,以前の作品を聴き直して彼の音楽の幅広さ・奥行きを思い知らされました。特に,『I am』(TOCP-6610 写真2)はヴァラエティに富んだ内容です。特に1曲目の「Deer’s Wind」は「ナウシカ」風の旋律であったり,ラフマニノフを彷彿とさせるフレーズであったり,ポール・モーリアの「蒼いノクターン」的なメロディがあったりして,楽しめます。

 

久石譲2.jpg


さて,このベートーヴェンの交響曲全集を聴いての感想は?とにかく,テンポが速い。「CDが開発された際に収録時間が74分に設定されたのはなぜ?」というクイズがあります。その解の一つが,「ベートーヴェンの交響曲第九」を1枚に収めるためといいます。ところが,久石盤は58分33秒です。また,有名な「運命」はどうか。私が本格的にベートーヴェンの交響曲を聴き始めた頃の最速盤はフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団の演奏で31分13秒,最遅盤はフェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィル盤で38分20秒。久石盤は29分36秒。その差が1分37秒で,ライナーと余り変わらないように見えますが,実は前二者は第4楽章のリピート無しでの演奏時間,こちらはリピートをしての時間ですので,いかに速いかが分かると思います。全集添付の冊子によれば,オーケストラの「フューチャー・オーケストラ・クラシックス」は2016年から長野市芸術会館を本拠地としていた「ナガノ・チェンバー・オーケストラ」を母体としたオーケストラです。長野県には,松本市に小澤征爾さんが主宰する「サイトウ・キネン・オーケストラ」があります。また西の石川県金沢市には「オーケストラ・アンサンブル・金沢」がありますので,その活動によって存在感を示すことは非常に難しいと思いますが,だからこそ,やろうという意気込みが感じられる,キャッチフレーズどおりのリズムが強調された演奏です。今のところ,この全集への評価を新聞では見ていませんが,今後の活動を見守りたいし,実際に生で聴きたい指揮者とオーケストラだと思います。

またクラシック以外の場で活動している人がベートーヴェンの交響曲全集を発表することも滅多にないことではないかと思います。ピアニストやヴァイオリニストによる全集は手元にありますが,久石さんの例は初めてではないかと思います。

もう一つのアダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団も初めて聴く指揮者,デンマークのオーケストラも初めてでしたが,第3番『英雄』の第3楽章に面白い解釈があり,楽しめました。

臨床福祉学科 長友道彦でした。

公共施設のあり方を考える

2019年9月 3日

公共施設は身近にたくさんあります。図書館や文化センター、体育館、競技場などのほかに、学校や福祉施設、公民館なども公共施設です。

先日、延岡市の公共施設のあり方を検討する委員会に出席しました。

 

延岡市が保有する建築施設は333施設(1,412棟)あるそうです。これらの施設の多くは人口増加の時代、つまり1970年代から90年代ごろにかけて整備されてきました。古いもので築50年が経過しています。とくに1981年以前に建てられた建物は現在の耐震基準を満たしていないものもあり、大きな地震に対する対策が必要です。また、築年数が20~30年であっても、定期的なメンテナンスをしなければ建物の寿命を早めることになります。延岡市の場合、今後40年間の更新費用として1年あたり104億円ほど必要と推計しています。

この委員会は、今ある公共施設を今後どう維持するのか、つまり「廃止するのか」「更新するのか」「立て替えるのか」といったことを、各団体の代表や公募による市民の代表によって意見を出し合い、施設のあり方を検討することを目的にしています。

それぞれの団体の視点からいろいろな意見がでましたが、とても印象に残った意見があります。

 

ある地区の区長の意見

「利用目的に沿った施設利用だけでなく、災害時の避難所としての役割がある」

 

青年団の方の意見

「長くその土地にある施設は住民にとって愛着があり、人によっては拠り所になっている」

 

まちづくり活動をされている方の意見

「人通りが少なく使われなくなった施設でも、人があつまる仕掛けに施設が活用できれば、賑わいが取りもどせるのではないか」

 

建物にかかるお金は建築費用だけではありません。建てた後もそれを維持するためには定期的なメンテナンスが必要で、そのためにはお金がかかります。メンテナンスをしなければ建物はすぐに傷んでしまいます。

延岡市においても人口の減少を避けることは難しく、今ある公共施設をすべて維持し続けるだけの財源を確保するのは難しいでしょう。だから「古くてあまり使われない施設は廃止する」という方向は簡単な方策かもしれません。

ただ、先ほど紹介した意見を聴いていると、「利用が少ない」というだけで廃止するのは、長く施設を利用してきた住民にとって悲しいことだと思います。今の住民のニーズにあわせて柔軟に利用変更ができることや、経費的にも効果的な維持管理方法を検討し、大切に施設を使いつづけることも考えていく必要があると感じました。

 

公共施設のあり方は「まちづくり」の視点で考える必要があります。福祉を学ぶ学生も「福祉のまちづくり」という点から、柔軟な発想で既存の施設の利用を考えて欲しいと思います。

 

臨床福祉学科 三宮基裕

氷(雪)がとけたら...

2019年7月25日

1989年2月20日、私は宮崎市の県自治会館で、当時日本教育学会の会長だった大田堯氏の講演を聴いていた。講演の中で、「雪がとけた何になるか」という理科のテスト問題に「春」と答えた児童がいたことが紹介され、大田氏は次のように話を続けた。

 

「なんて雄大な答ですか。低学年の子どもが大自然現象を、雪がとけたら春になる、というような答は、実にスケールの大きな答だと、場合によっては二重丸を差し上げてもいいんです。残念なことにこれにはペケがついている。先生ってなんてみみっちいんだろうと私は思います。自分の思っている事と合わないと丸をくれないんですから。」

(講演記録より引用)

 

この「雪がとけたら…」の話題は、もともと朝日新聞の家庭欄に掲載された記事が「天声人語」(1980年2月10日)であらためて取り上げられたことから全国に広がったようだ。

 

「…略…。氷が解けたら何になりますかという問いに、たいていの子は『水になります』と答えた。むろん、これは正しい。ところが、ひとりだけ『春になる』と答えた子がいた。みなが一斉に同じ方向に考えを向けていた時、その子だけは別の方向へ頭を働かせていたのだ▼『水になる』を〇とするテストでは、春になるとか、ぬかるみになるとかの答えは×になる。答えが一つあって先生がそれを隠している。生徒は先生の考えている正解を探りあてようとする。そういうクイズ番組のような教室では、みなが考えもつかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力は育ちにくい。…略…。」

 

原文は、「雪がとけたら…」ではなく、「氷がとけたら…」である。ところが、現実には「氷」よりも「雪」のバージョンのほうが世間には広まっている。おそらく「雪」のほうが「春」と結びつけやすかったからであろう。実は、これに酷似した話は、産経新聞の「産経抄」(1992年2月28日)でも取り上げられている。

 

「『氷がとけたら〇になる=〇の中に字を入れなさい』という試験問題で、大多数の子は『水』と答えて正解だったが、一人だけ○の中に『春』と書いた。この答えは間違っているのか。▼昨日の本紙コーヒーブレーク欄に寄せられた一文に、思わず氷ならぬほおがゆるんだ。定型や紋切りや科学的常識にとらわれることのむなしさ、あるいはおかしさ。それもさることながら、氷雪に閉ざされた北国の子の、激しい春待つ心に二重マルをつけたくなる。…略…。」

 

大田氏、天声人語、産経抄のいずれの論調も共通している。個人(子ども)の自由な発想を尊重しない定型化された学校教育への批判、教師のみが正しい答えを所有・承認するという正答主義への批判である。こういう論調は世間でも歓迎されるようである。

 

それに対して、呉智英氏は上記の産経抄を取り上げて次のように言う。

 

「たかだかコドモの謎々遊びに、何をもっともらしく感心しているのだろう。…略…。『氷がとけたら(春)になる』は、珍問奇問、呆問愚答ではないのか。…略…。しっかりした基礎学力とは、『氷がとけたら(水)になる』と解答する力のはずではないのか。」

 

「『定型や紋切りや科学的常識にとらわれること』が『むなしさ、おかしさ』に直結していると、現在ほど広く強固に信じられている時代はない。猫も杓子ももちろんサルも、口を開けば、独創性、独創性、独創性…。何が、どう、何故に、独創的なのか、まともに考えることもなく、独創的と言いさえすればすんだ気になる。その結果が、コドモの謎々に大仰に感動する醜悪さなのだ。」

(呉智英『サルの正義』双葉社、1993年)

 

学校教育への批判はさまざまな視点からなされてよい。この「氷(雪)がとけたら…」の話題についても、視点を変えていけば、批判は無数に出るであろう。

 

私は、学校教育批判以前に、この話題やその取り上げ方自体に多くの疑問を感じる。

 

この話題はもともと小学校の理科のテスト問題であることを前提にしている。

 

とすると第1に、「氷(雪)がとけたら何になるか」という理科のテスト問題で「春」を正解にする(ことを主張する人たちにとっての)根拠は何なのか。氷(雪)がとけたあとに起こる自然現象を挙げているから、という根拠であれば、「水蒸気」でも「ぬかるみ」でも「川」でも「夏」でもよいことになる。それらは無差別に(ひとしく)正解なのか。

 

第2に、「水」と答えた児童と「春」と答えた児童を同じく正解にするということ(を肯定する人たち)は、それぞれ別の基準で評価する(ことも肯定する)ということである。同じテスト問題でありながら、氷(雪)自体が変化すると何になるのかという問いと、氷(雪)がとけたあとには何が起こり得るかという問いの2つの意味を持つことになる。そのようなテスト問題は適正な問題なのか。

 

第3に、理科のテスト問題で「みなが考えもつかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力」や「定型や紋切りや科学的常識にとらわれ」ない力、みんなとは「別の方向へ頭を働かせ」ることを評価するということは適切であるのか。適切であるとすれば、テストの前にそのことをすべての児童に伝えておくべきではないか。どう伝えるかは大問題であるが、少なくともそれをしなければ公平ではない。

 

第4に、児童の解答が「雄大な答」であるかどうか、あるいは、「スケールの大きな答」であるかどうかを誰がどういう基準で判定するのか。仮に教師にそれを判定できる能力があるとしても、それをわざわざ理科のテスト問題で判定する理由はなにか。

 

上述の疑問は、どちらかといえば、私にとっては後付けに近い疑問である。より根本的な疑問がある。例えば、呉智英氏は、次のような疑問も指摘している。

 

「今、産経抄を読んで新たに思うのは、『氷がとけると』の珍問愚答が本当に実在するのか、ということだ。この珍問愚答の話、どうもいんちきくさい。珍問も愚答も、どこかわざとらしい。そうたびたび同じ珍問が出題され、そうたびたび同じ愚答が出るものだろうか。」(呉智英、同上書)

 

呉氏の疑問とも関連するが、私が感じる疑問はより現実的だ。それは、「氷(雪)がとけたら何になりますか」といったようなテスト問題をつくる小学校教師がいるとは到底思えない、ということである。

 

氷(雪)自体が変化すると何になるのかということを問うテスト問題であれば、通常の日本語(助詞)の用法を知っている教師であれば、「氷(雪)はとけると何になりますか」と問う。子どもが混乱しないように「が」ではなく、「は」を使う。「は」を使えば、「春」という解答も出てこない。(二杉孝司「授業論壇時評 雪がとけると何になる?」『授業づくりネットワーク』No.19、1990年)その使い分けすらできない教師は、テスト問題どころか、どんな教科の授業もまともにはできないはずだ。

 

学校や授業のあるべき姿、子どもたちに本当に身につけさせたい能力、学習成果の評価の在り方。こうした「望ましい教育の在り方」論は大いに議論されるべきだ。しかし、学校のテストでは最低限(それに正解できるかどうか別にして)、子どもたちが「どう答えてよいのかわからない」と思ってしまうような問題(文)は避けなければならない。それは教育行為の大原則である。仮に「春」と答えてくれる子どもの発想が望ましいとしても避けなければならない。教師にとって、問題づくりの原則は「望ましい教育の在り方」論と同等な重要度をもつ。もちろん、テスト問題を目の前にしている子どもにとっては、前者のほうがはるかに重要である。

 

教職をめざす学生たちにも、現実の教育行為を統制している有効な原則についておおいに学んでほしいと願っている。教育現実の理解があってこそ(それを肯定するにせよ否定するにせよ)、理想への希求も高まり、その現実化の可能性も高まるからである。

 

臨床福祉学科 兒玉 修

1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / 13 / 14 / 15