福祉専攻教員の上農です。大学では「哲学」「人間論」「障害児教育」等の講義をしてきました。研究分野としては聴覚障害児を対象とした医療社会学と臨床哲学の問題に取り組んでいます。今回は私の仕事に深い関係のある手話の話をしたいと思います。
4月3日の朝のニュースで新しい元号「令和」の手話表現が早速決まったことが報じられていました。また、4月1日に新元号が発表された際のテレビ放送で、菅官房長官が掲げた「令和」のパネルと手話通訳者のワイプ(小窓映像)が重なってしまったことも聴覚障害者の間では話題になっています。事前の周到な準備があれば防げたトラブルで、残念ながら障害者に対する情報保障への認識に課題を残しました(それでも、手話通訳者が付いているだけでも以前と比べれば改善されているわけですが)。
このような形で、私たちの暮らしの中にも時折、手話の存在が姿を現すことがある、そんな時代になっています。中学や高校で手話の基礎を少しだけは学んだ人も増えてきました。
さて、皆さんは手話について、どんなイメージを持っているでしょうか?
(1)手話は万国共通なのではないか。だから、手話を使う聴覚障害者は外国に行っても話が通じて便利だろうな。
(2)しかし、手話はジェスチャーのような身振りだから、簡単なことは表現できても、複雑な話は手話では出来ないのではないか。
(3)聞こえない子どもたちはどうやって学校で勉強しているのだろうか。やはり、聾学校では手話を使って授業しているのだろうか。
こんなふうに思っている人は多いのではないでしょうか。しかし、これはすべて事実とは異なる誤解です。どんなふうに誤解なのかということを以下に説明しますが、その前に、そのこととの関連で、聞こえない人たちを「中途失聴者」「難聴者」「聾(ろう)者」という三つの集団に分けて考える場合があることについて話しておきます。
中途失聴者とはある年齢から聴力を失った人たちで、それまでは聞こえていた人たちです。難聴者とは全く聞こえないわけではなく、ある程度は聞こえる人たちです(ただし、その聴力の程度は様々です)。聾者とはほとんど聞こえない人たちのことです。聾という漢字には「つんぼ」という差別的な意味もあるため、「ろう」と平仮名で書くことが多いのですが、龍の耳は聞こえない代わりに、その角に神力が宿っているという中国の神秘的な故事があるため、この漢字をそのまま使う人もいます。
さて、誤解についての話です。
(1)日本、アメリカ、フランス、イタリアには独自の手話があり、それぞれ異なっています。日本の手話とアメリカの手話が通じ合うことはありません(ただし、日本と韓国の手話、アメリカとフランスの手話には類似した部分はあります。それは歴史的な事情があるからです)。例えば、アメリカ人の聾者が手話で講演する場合、それをまず一旦、日本の手話に通訳し、さらに、その日本の手話を音声日本語に通訳するという二重通訳が必要です。
(2)日本で使用されている手話には対応手話と日本手話という二種類の手話があり、それぞれ性質が違います。対応手話は日本語を手話単語で部分的に表したもので、音声が伴うことが多く、主に中途失聴者や難聴者が使っています。日本手話は日本語とは異なる独自の文法構造を持っていて、発話を伴わず、聾者によって使われています。
日本手話は独自の文法を駆使して、日本語に劣らぬ複雑で精緻な内容を表現できる自然言語です。実際、聾者同士は日本手話によって、聞こえる人間と何ら変わらない複雑で豊かな意思疎通を図って暮らしています。手話には抽象的な概念を表す語彙もちゃんとあり、「日本手話学会」という学術組織では言語学の専門的な議論も日本手話で交わしています。
(3)聾学校では長い間、手話は禁止されていました。音声言語を聞こえない子どもたちに習得させる「口話法」という教育が採用されていたからです。しかし、十数年前から徐々に手話も取り入れられるようになり、今では口話と手話が混在した状況になっています。ただし、それでも聞こえない子どもたちが日本語を習得するのは難しく、教科学習にも大きな課題を残しているのが現実です。
手話ということばの仕組みを知ることで、言語自体の機能や構造を再認識させられる、つまり、聞こえる人間が無意識で使っている自分たちのことばやコミュニケーションについて改めて考えさせられるという効用が手話にはあります。手話というと、何かすぐに福祉との結びつきが浮かびますが、手話には「ことばとは何か」「コミュニケーションとは何か」という人間にとっての根本的問題を考える“入り口”としての意味もあります。私も言語学や文化人類学、哲学の問題としての興味から手話の世界に入りました。
手話に関心のある人に勧めたい映画と本を紹介します。映画は「愛は静けさの中に」という作品です。主人公の聾女性を本物の聾者であった女優マーリン・マトリンが演じていて、聾者では初めてアカデミー主演女優賞を受賞しました。この映画は、愛し合う聾者と聴者が互いを真の意味で「理解する」ことの難しさとその葛藤を正面から描いています。私たちが陥りやすい“安易な善意”というものを再考するきっかけになるでしょう。
本は『わが指のオーケストラ』(全4巻)(山本おさむ)というマンガです。この作品を読むと、日本の聾学校において、なぜ長い間、手話が禁じられてきたのか、その歴史的経緯が分かります。また、聞こえない人間にとって手話がなぜ必要なのかという最も大切な問題を的確に訴える点において、おそらくこのマンガ作品以上のものはありません。
もう一冊、『言葉のない世界に生きた男』(スーザン・シャラー著)を挙げておきます。
福祉や医療の勉強は現実的には資格取得のための知識の学習になりがちですが、福祉や医療が職業の対象にする障害者や高齢者の存在の根底、根源には、哲学や言語学が取り扱ってきた本質的な問題が密接に係わっています。大学で「学ぶ」とは、本来、そのような学問の深い意味に少しでも触れて、大人になるということではないかと私は考えています。