氷(雪)がとけたら…

1989年2月20日、私は宮崎市の県自治会館で、当時日本教育学会の会長だった大田堯氏の講演を聴いていた。講演の中で、「雪がとけた何になるか」という理科のテスト問題に「春」と答えた児童がいたことが紹介され、大田氏は次のように話を続けた。

 

「なんて雄大な答ですか。低学年の子どもが大自然現象を、雪がとけたら春になる、というような答は、実にスケールの大きな答だと、場合によっては二重丸を差し上げてもいいんです。残念なことにこれにはペケがついている。先生ってなんてみみっちいんだろうと私は思います。自分の思っている事と合わないと丸をくれないんですから。」

(講演記録より引用)

 

この「雪がとけたら…」の話題は、もともと朝日新聞の家庭欄に掲載された記事が「天声人語」(1980年2月10日)であらためて取り上げられたことから全国に広がったようだ。

 

「…略…。氷が解けたら何になりますかという問いに、たいていの子は『水になります』と答えた。むろん、これは正しい。ところが、ひとりだけ『春になる』と答えた子がいた。みなが一斉に同じ方向に考えを向けていた時、その子だけは別の方向へ頭を働かせていたのだ▼『水になる』を〇とするテストでは、春になるとか、ぬかるみになるとかの答えは×になる。答えが一つあって先生がそれを隠している。生徒は先生の考えている正解を探りあてようとする。そういうクイズ番組のような教室では、みなが考えもつかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力は育ちにくい。…略…。」

 

原文は、「雪がとけたら…」ではなく、「氷がとけたら…」である。ところが、現実には「氷」よりも「雪」のバージョンのほうが世間には広まっている。おそらく「雪」のほうが「春」と結びつけやすかったからであろう。実は、これに酷似した話は、産経新聞の「産経抄」(1992年2月28日)でも取り上げられている。

 

「『氷がとけたら〇になる=〇の中に字を入れなさい』という試験問題で、大多数の子は『水』と答えて正解だったが、一人だけ○の中に『春』と書いた。この答えは間違っているのか。▼昨日の本紙コーヒーブレーク欄に寄せられた一文に、思わず氷ならぬほおがゆるんだ。定型や紋切りや科学的常識にとらわれることのむなしさ、あるいはおかしさ。それもさることながら、氷雪に閉ざされた北国の子の、激しい春待つ心に二重マルをつけたくなる。…略…。」

 

大田氏、天声人語、産経抄のいずれの論調も共通している。個人(子ども)の自由な発想を尊重しない定型化された学校教育への批判、教師のみが正しい答えを所有・承認するという正答主義への批判である。こういう論調は世間でも歓迎されるようである。

 

それに対して、呉智英氏は上記の産経抄を取り上げて次のように言う。

 

「たかだかコドモの謎々遊びに、何をもっともらしく感心しているのだろう。…略…。『氷がとけたら(春)になる』は、珍問奇問、呆問愚答ではないのか。…略…。しっかりした基礎学力とは、『氷がとけたら(水)になる』と解答する力のはずではないのか。」

 

「『定型や紋切りや科学的常識にとらわれること』が『むなしさ、おかしさ』に直結していると、現在ほど広く強固に信じられている時代はない。猫も杓子ももちろんサルも、口を開けば、独創性、独創性、独創性…。何が、どう、何故に、独創的なのか、まともに考えることもなく、独創的と言いさえすればすんだ気になる。その結果が、コドモの謎々に大仰に感動する醜悪さなのだ。」

(呉智英『サルの正義』双葉社、1993年)

 

学校教育への批判はさまざまな視点からなされてよい。この「氷(雪)がとけたら…」の話題についても、視点を変えていけば、批判は無数に出るであろう。

 

私は、学校教育批判以前に、この話題やその取り上げ方自体に多くの疑問を感じる。

 

この話題はもともと小学校の理科のテスト問題であることを前提にしている。

 

とすると第1に、「氷(雪)がとけたら何になるか」という理科のテスト問題で「春」を正解にする(ことを主張する人たちにとっての)根拠は何なのか。氷(雪)がとけたあとに起こる自然現象を挙げているから、という根拠であれば、「水蒸気」でも「ぬかるみ」でも「川」でも「夏」でもよいことになる。それらは無差別に(ひとしく)正解なのか。

 

第2に、「水」と答えた児童と「春」と答えた児童を同じく正解にするということ(を肯定する人たち)は、それぞれ別の基準で評価する(ことも肯定する)ということである。同じテスト問題でありながら、氷(雪)自体が変化すると何になるのかという問いと、氷(雪)がとけたあとには何が起こり得るかという問いの2つの意味を持つことになる。そのようなテスト問題は適正な問題なのか。

 

第3に、理科のテスト問題で「みなが考えもつかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力」や「定型や紋切りや科学的常識にとらわれ」ない力、みんなとは「別の方向へ頭を働かせ」ることを評価するということは適切であるのか。適切であるとすれば、テストの前にそのことをすべての児童に伝えておくべきではないか。どう伝えるかは大問題であるが、少なくともそれをしなければ公平ではない。

 

第4に、児童の解答が「雄大な答」であるかどうか、あるいは、「スケールの大きな答」であるかどうかを誰がどういう基準で判定するのか。仮に教師にそれを判定できる能力があるとしても、それをわざわざ理科のテスト問題で判定する理由はなにか。

 

上述の疑問は、どちらかといえば、私にとっては後付けに近い疑問である。より根本的な疑問がある。例えば、呉智英氏は、次のような疑問も指摘している。

 

「今、産経抄を読んで新たに思うのは、『氷がとけると』の珍問愚答が本当に実在するのか、ということだ。この珍問愚答の話、どうもいんちきくさい。珍問も愚答も、どこかわざとらしい。そうたびたび同じ珍問が出題され、そうたびたび同じ愚答が出るものだろうか。」(呉智英、同上書)

 

呉氏の疑問とも関連するが、私が感じる疑問はより現実的だ。それは、「氷(雪)がとけたら何になりますか」といったようなテスト問題をつくる小学校教師がいるとは到底思えない、ということである。

 

氷(雪)自体が変化すると何になるのかということを問うテスト問題であれば、通常の日本語(助詞)の用法を知っている教師であれば、「氷(雪)はとけると何になりますか」と問う。子どもが混乱しないように「が」ではなく、「は」を使う。「は」を使えば、「春」という解答も出てこない。(二杉孝司「授業論壇時評 雪がとけると何になる?」『授業づくりネットワーク』No.19、1990年)その使い分けすらできない教師は、テスト問題どころか、どんな教科の授業もまともにはできないはずだ。

 

学校や授業のあるべき姿、子どもたちに本当に身につけさせたい能力、学習成果の評価の在り方。こうした「望ましい教育の在り方」論は大いに議論されるべきだ。しかし、学校のテストでは最低限(それに正解できるかどうか別にして)、子どもたちが「どう答えてよいのかわからない」と思ってしまうような問題(文)は避けなければならない。それは教育行為の大原則である。仮に「春」と答えてくれる子どもの発想が望ましいとしても避けなければならない。教師にとって、問題づくりの原則は「望ましい教育の在り方」論と同等な重要度をもつ。もちろん、テスト問題を目の前にしている子どもにとっては、前者のほうがはるかに重要である。

 

教職をめざす学生たちにも、現実の教育行為を統制している有効な原則についておおいに学んでほしいと願っている。教育現実の理解があってこそ(それを肯定するにせよ否定するにせよ)、理想への希求も高まり、その現実化の可能性も高まるからである。

 

臨床福祉学科 兒玉 修