『宇宙戦艦ヤマト』と『第九』

新型コロナ・ウイルスの感染に終息の兆しが見えません。1月のブログ『生誕250年』の時点では,オリンピック・イヤーなどと書きましたが,延期されました。今考えると「脳天気」だったと反省しております。前回案内した学科のイベントも実質的には見送らざるを得ませんでした。大学での大きな儀式である学位記授与式(卒業式)も入学宣誓式(入学式)も中止を余儀なくされました。さらに,授業も当初の予定は,4月7日からでしたが,4月20日へ延期,さらに連休明けの5月7日へ再延期されております。そして,通常の対面授業が困難になった場合を想定して,「遠隔授業」の準備も進められております。

「春の選抜高校野球」をはじめとして,高校生たちの全国大会,アスリートたちの大会も軒並み中止・延期となっています。無観客でのプロ野球オープン戦・大相撲の春場所は普段は歓声で聞き取れない雰囲気が味わえるという声もありましたが,やはり選手・力士と観客の関係は相乗効果があるのではないかなぁと思って眺めていました。当然新聞のスポーツ欄も記事不足で,過去の話題となった出来事で編成する苦労が覗えます。

今回の新型コロナ・ウイルス問題に関して,音楽好きの一人として,残念な悔しい思いをしました。4月29日に福岡市で『宇宙戦艦ヤマト』の交響曲と組曲の演奏会(チラシ写真)が予定されていたのですが,中止になってしまいました。

 

宇宙戦艦ヤマト.jpg

 

交響曲は,故羽田健太郎氏が宮川泰氏のテーマを元に4楽章で作曲し,最終楽章はピアノとヴァイオリンの協奏曲風に仕上がっております。レコードでは聴いたことがあるのですが,生の演奏会を楽しみにしていただけに,まさに「コロナの奴め~」というところです。そう言えば,アニメの『宇宙戦艦ヤマト』は地球の危機を救うために宇宙に旅立っていったのではなかったかな?ちょっと皮肉な結果になってしまいました。

しかし,今新たな不安が頭をかすめています。それは,今年はベートーヴェンの『第九』を生で聴けるだろうか,ということです。合唱団の並びやオーケストラの配置は3密の2つに該当するし,ホールも密閉状態に近いかも知れません。練習時間のことを考慮すれば,心配です。

何とか,年末には高らかに歌い上げられる『第九』を楽しみたいものです。

コロナ・ウイルスの早期終息を祈りながら。臨床福祉学科 長友道彦でした。

「ソーシャル」という言葉

新型コロナウィルス感染拡大を受けて、最近ニュースで「ソーシャルディスタンス」という言葉を目にします。「社会的距離」と訳されるようで「人と人との間に距離を取る」ことを意味するようです。

PRESIDENT Online 「海外では当たり前「ソーシャル・ディスタンス」はなぜ日本で守られないか」 2020/4/17付け https://president.jp/articles/-/34660

 

正確な情報かどうか確認していませんが、YAHOO知恵袋を見るとアメリカではSocial distancing または Physical distancing と呼ばれこれが「対人距離」を表す言葉だそうで、Social distance では、人種、性的思考、階級など社会的な(グループとの)距離、という意味で用いられるそうです。

また、別の方のコメントでは「最近ソーシャルネットワーク(SNS)という用語が世界的に大流行?しているので、おそらくsocialという言葉が、誰にでもわかる言葉として使われたのでしょう。」とありました。たしかに、スマートフォンが普及してからSNSという言葉を日常的に聞きます。

その他、ソーシャルがつく言葉として、ソーシャルエンジニアリング (social engineering)、ソーシャルドリンカー (social drinker)、ソーシャルビジネス (social business)、ソーシャルマーケティング (social marketing)などもあるようです。

 

ふと、「”social”を ”社会的”と訳したとき日本ではどうなのだろう?」と考えてみると、日常的に使う「社会的〇〇」という言葉はすぐには思いつきませんでした。英語では「ソーシャル」という言葉はなじみ深いものなのだと感じました。

 

「ソーシャル」がつく言葉の一つに「ソーシャルワーク (social work)」があります。

日本語訳として「社会福祉」と訳されることが多いですが、意味することが厳密に認識されていないような気がします。
「社会福祉」と聞くと「困っている人々への支援」という意味で主に障がいや高齢者などが対象として理解されがちですが、本来は、その対象はすべての人びとであり、その活動は支援だけでなく社会に働きかけていくことも含んでおり、「人が集団のなかででより良く生きるための活動」といった意味なのだと思います。

すべての人が分け隔てなくより良く生活できる。そんな社会を実現するために活動するのがソーシャルワーカー(social worker)なのでしょう。

 

本学で福祉を学ぶ学生諸君に「ソーシャルワーク (social work)」が意味する本質について問いかけ、深く考えるきっかけを作ってあげようと思います。

 

臨床福祉学科 三宮基裕

「時流」に流されない

新型コロナの影響で、本学の講義開始は4月20日からです。

たくさんの期待を持って新入生が入学してくれましたが、大学の楽しさを実感するには、しばらく時間がかかりそうです。

 

最近読んだ2冊の本のなかで、同じ言葉が出てきました。それは「時流」という言葉です。

「時流」とは、「その時代の風潮・傾向」という意味です。

 

1冊目の本のタイトルは『時流に反して』(竹山道雄、文藝春秋、1968)というもので、以前、このブログ※で紹介した先生にいただいた本です。

 

※ 臨床福祉学科ブログ 『読書の冬休み』2020年1月7日

 

第二次世界大戦中から戦後の筆者の体験や、当時の政治や世論の考えなどが記されたもので、「なぜ人々は戦争へと突き動かされたのか」ということが述べられていました。戦争など誰もしたいわけがありません。せざるを得ない状況が当時にはあり、世論も疑問を持ちながらもその時代を生きたのだと感じました。

 

2冊目は『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』(中村哲、NHK出版、2013)です。中村哲さんは福岡出身の医師で、30年以上アフガニスタンで活動しました。先生は、医療活動をするなかで水と食料不足が根本的な問題であることに気づき、医師でありながら独学で河川工事の技術を学びました。そして地元住民を指揮し、沙漠に水を引き農地を復活させ、安定した水の供給と自給自足の生活を実現しました。残念ながら昨年の2019年12月に現地で銃撃にあい亡くなられました。

この本の終章に日本の人々に対するメッセージが書かれていて、その一説に「時流」という言葉が出てきました。

「変わらぬものは変わらない。江戸時代も、縄文の昔もそうであったろう。いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。」(pp.245-246)

経済中心で目まぐるしいスピードで進む時代のなかで「本当に大切なものは何か」ということを問うているように感じます。

 

 

IMG_2308.JPG

 

 

 

1968年と2013年という半世紀近くも離れた書物から「時流」というキーワードの重なりをみて、周りの雰囲気に押されて無考えにならず、今、起きていることじっくり考える大切さを学びました。

 

これから日本はますます少子高齢化が進みます。また、多様性が広く認識され、いろいろな価値観を持つ方と接することになるでしょう。

臨床福祉学科の学生には「時流」に流されず、これからの福祉社会を考える学生に成長してもらいたいです。

 

三宮 基裕

臨床福祉学科のイベント

新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されますが、2月17~18日延岡・門川・日向地区の高校を訪問してきました。私が在籍している臨床福祉学科のイベント案内のチラシ(別紙)の掲示をお願いするためです。訪問して思ったことは、各学校の応対の素晴らしさです。ちょうどこの冬一番の寒気の襲来とかで、風が強かったのですが、丁寧に応対して貰えました。進路指導部まで案内して貰ったり、退出する際に、気を付けて帰るように声をかけていただきました。

また、旧知の同僚や後輩たちとも久しぶりに顔を合わせることもできました。若いと思っていた先生が、この3月で定年退職であったり、それなりに責任あるポストで活躍していたり、感慨深いものがありました。

さて、今回の学科の取り組みです。福祉=介護というイメージが強いのではないか。そのイメージを払拭するきっかけになればというイベントです。市内のスーパーや施設等にも掲示をお願いに回っております。このブログをご覧の高校生は是非足を運んでみませんか。また保護者の方はお子様に紹介していただければ幸いです。  臨床福祉学科 長友道彦でした。

 

 

2019ミニOCポスター03.jpg

生誕250年

2020年が始まりました。今年は、何と言ってもオリンピックが話題になっています。また,恒例の箱根駅伝も100年という節目が放送されていました。節目ということでは,私が崇拝するベートーヴェンの生誕250年にあたります(1770年12月17日~1827年3月26日)。今から50年前は当然ながら,生誕200年記念と銘打った大全集が発売されていました。と書きましたが,当時それを実感していた訳ではありません。なぜならば,今振り返って見ると私にとって当時のベートーヴェンの存在は今ほど大きな絶対的なものではなかったことに思い当たります。

ジャン・クリストフ.jpg

50年前は,大阪万博が開催された年です。三波春夫さんが♪1970年の こんにちは~♪と歌っていました(生誕200年が万博,250年がオリンピックと不思議な暗合ですね)。当時私は高校2年生でした。高校3年で大学受験に失敗し,3浪もしてしまいました。特に,2浪目の受験では入試に手応えを感じ,浪人中の下宿を引き払い駅留めで荷物を発送する準備を整えて合否電報を待ちましたが,結果は不合格でした。今年こそはという希望があっただけに,落胆・絶望・失意…の状態でした。そういう状態の時に出会ったのが,ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』でした。

ロランがベートーヴェンをモデルに描いた大作です。私が読んだのは,新庄嘉章訳の新潮文庫版(全4冊 写真1)でしたが,主人公ジャン・クリストフ(ベートーヴェン)の生き方に圧倒されました。新しい力が湧き起こるとともに,自分の将来に対する見方にも変化が生まれました。人の生き方に対する興味関心が強くなっていきました。当初希望していた学部は最後まで受験しましたが,歴史を学べる学部も受験して結局そこに落ち着くことになりました(第一志望学部は一期校・二期校含めて10戦全敗でした)。  

全集帯.jpg

この過程の中でベートーヴェンは,自分を蘇らせてくれた存在として大きなもの絶対的なものとなりました。最初に買ったレコードの全集がカラヤン指揮の交響曲全集でした(写真2)。辛い時や力・勇気が欲しい時は第3番「英雄」や5番「運命」・7番といった作品,心に癒やしが欲しい時は偶数番の曲を聴いていました。「第九」はそれらを超越する傑作です。その後,他の作品や演奏者のレコードを聴くようになり,現在に至っています。ベートーヴェンの存在が,ベートーヴェンの音楽があったからこそ,私は人生を何とか前向きに生きてこられたと思っています。だからこそ,前職を退いた時,ウィーンの彼のお墓にお礼に行ったのは当たり前のことだったのです(学科ブログ 2014年⒓月10日 「トイレの花子さん4」)。(ちなみに長女の名前は「第九」第3楽章,次女は「悲愴ソナタ」の第2楽章に触発されました。)

生誕250年を記念したCD全集(123枚組や85枚組)が発売されるようです。今買っても,聞き終えることもないだろうし,既に所持しているものと重複しているので,今回は買いません。もう少し若ければ,絶対に買うでしょうね。

節目の年と言えば,私たちの夫婦も⒓月で結婚40年を迎えます(ルビー婚とか言うそうですね)。 今年が良い年になりますように。

臨床福祉学科 長友道彦でした。

読書の冬休み

新年が明け、今週から後期の授業が再開です。といっても2週間後には定期試験が始まるので、あとひと月もすれば春休みです。ただ、4年生は社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士の国家試験を控え、2・3年生の一部の学生は学外実習や実習に向けた体験学習があります。学生諸君は、年度末まで忙しい日々を過ごしています。

 

さて、今年度をもって臨床福祉学科をご退官される先生から、「もうしばらく教育の仕事に携わるでしょうから、参考にしてください」と年末に1冊の本をいただきました。今年の冬休みはその本を読んで過ごしました。

 

IMG_1353.JPG

加藤秀俊『独学のすすめ』文春文庫

 

1978年(昭和53年)に発行された本ですが、教育・研究に取り組む姿勢を考える上でとても参考になりました。そのなかでもとくに感銘を受けた部分を3つ紹介します。

 

①「「教育」というものの基本的な目的と意味は、ひとりひとりの個人に、人生に対する意欲をつちかうことにある。意欲ある人生を送ることのできる人間――そういう人間をつくることが教育の使命なのである。」(p.41)

 

20年以上、大学で学生の教育に携わってきましたが、最近は教えることばかりを考え、学生の意欲を高める意識が薄らいでいたように思います。「意欲を高める教育」を再認識させてもらいました。

 

 

②「自分のしごと、ということは、とりもなおさず、自分という存在のまわりに境界線をつくることだ。わたしのやることはここまで、ここから先はあなたのしごと――そんなふうに、生活のなかには、しごとの境界線がつくられている。しごとは「個人」と密着した「義務」になる。」(p.118)

 

これは文中の引用の言葉でした。この文章だけでは分かりにくいですが、要は「やるべきことを「仕事」と意識してしまうと、自分の担当部分しか取り組まなくなる」ということです。この意識が強いと、急な用事を頼まれたときに「なぜ、自分がしないといけないのか」という気持ちになってしまいます。「仕事」と境界線を引かず、自分のできることには積極的に関わるという気持ちで臨みたいと思いました。

 

 

③「学問とか知識とかいうものは、じっさいは茫洋(ぼうよう:広々として限りのない)としていて、どこにも境界線なんか、ありはしない。 ―中略― 切りわけられたひときれの羊カンを「学問」だと思いこみ、その「専門」にみずからを閉じこめてしまうのは、学者として、とんでもないカンちがいだ。」(p.184)

 

私は大学で建築学の勉強をしていたので、九保大で教育や研究をしながら「福祉は自分の専門ではない」と思っていた自分が、この一文を読んで恥ずかしくなりました。学ぶことに専門かどうかは重要ではない。学びたいことを学べばよい。最も基本的なことに気づくことができました。

 

20年以上も教育・研究に携わっていて、今頃、このようなことに気づき、とても恥ずかしい思いもありますが、この本に出合えて本当に良かったと思いました。

 

 

もっとたくさんの本を読み、学生たちにも「読んでよかった」と思ってもらえる本を紹介していきたいです。

臨床福祉学科 三宮 基裕

留学生と調理実習

みなさんこんにちは。介護福祉コースの稲田です。久しぶりのブログになります。

今日は、介護福祉士養成科目である「生活支援技術演習(家事Ⅱ)」の授業の中で、「郷土食」「高齢者ソフト食」の調理実習ということで、チキン南蛮とお味噌汁を作りました。

介護福祉コース1年生と今年9月から科目等履修生として中国から留学している「杜 宛庭」(トゥ ワンティ)さんと介護教員と楽しく調理実習をしました。

 

 

20191213-01.jpg

つけダレとタルタルソースの味は、2グループに分かれ、それぞれのグループがスマホで検索したレシピで作りました。

1グループは、タルタルソースにレモン汁を、1グループは牛乳を入れていました。

2グループともとてもおいしかったです。

みんな全量摂取

 

杜さんは、日常会話なら話ができます。我々も杜さんに中国語を教えてもらいましたが(自分の苗字位ですが)、中国語は発音がとても難しいです。

「学食のチキン南蛮がとてもおいしい」2.3月に中国に帰省するとのことなので、「家族にチキン南蛮を作ってみたい」といっていました。介護福祉コースの学生も、いつもお世話になっている保護者の方に作ってみてください。介護は実践することが大事ですので。

 

 

20191213-04.jpg

 

色々な再会

少々大げさかもしれませんが、ふとしたことに「生きている喜び」を実感することがあります。11月23日に宮崎市のメディキット県民文化センターで,ベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』と交響曲第7番の演奏会がありました。韓国出身のチョ・ソンジンのピアノ,マレク・ヤノフスキ指揮のケルン放送交響楽団の演奏です(写真)。

 

写真1.jpg

 

チョ・ソンジンさんの演奏は9年前,彼がまだ16歳の頃にNHK交響楽団とショパンのピアノ協奏曲第1番を聴いて以来2度目です。その間,ショパン国際コンクール優勝など,めざましい活躍を続けています。特に彼の活躍に注目していた訳ではありませんが,その技術や表現に圧倒され嬉しくなりました。

休憩中に知り合いとばったり会って話をした後,自席に戻ろうとしたら,「長友先生」と女性に呼び止められました。「担任して貰ったYです」と名乗ってくれました。(最近は,教え子だと分かっていても,名前が出てこないことがあるので,これは助かりました)。Yさん。コンサートの会場だったせいなのか,修学旅行の際に,親戚の人が東急関係に勤めていて開館間もないオーチャードホールを案内するからと宿泊所からの外出を許可したことを思い出しました。そのことを話すと,「そうです,そうです」と喜んでくれました。2部の始まる時間が迫って来ましたが,同じ高校の男性と結婚して二人の子どもがいることを話してくれ,握手して別れましたが,私の方も嬉しい気持ちで席に戻りました。交響曲7番の演奏も素晴らしいもので,オーケストラの迫力に圧倒され,その余韻を胸に帰途につきました。

さて,ベートーヴェンの交響曲全集が出ると,食指が動きます。オンラインショッピングで,ユッカ・ペッカ・サラステという指揮者による全集(輸入盤)が出ていることの案内が来ました。オーケストラはWDR Sinfonieorchesterと書いてあります(写真)。注文して聴いて意外な発見がありました。全集を購入した場合,私は,3番の『英雄』から聴きます。その4楽章の冒頭の,通常ピチカートで演奏される部分が弓で演奏されていたのです。こうした演奏は過去に二人の指揮者が行っていました。ともにN響を振ったことのある,カイルベルトさんとマタチッチさんです。それ以後,この形の演奏を聴いたことがなかったので,驚くと同時に懐かしさすら覚えました。

 

写真2.jpg

 

さらに,WDR Sinfonieorchesterは,何と生で聴いたばかりの上述のケルン放送交響楽団のことだったのです。改めて偶然の面白さに自分自身驚いています。そしてCDの解説を眺めていると,ケルンはドイツ語表記でKöln,英語ではCologneだということにも気づきました。

11月23日のコンサートは私に音楽を聴く喜びだけでなく,教え子との再会や新しい知見を与えてくれて,ささやかな幸福感に浸ることができています。

臨床福祉学科 長友道彦でした。

トンネルを抜けると

今年で32回目を迎える「北九州国際音楽祭」というイベントがあります。その存在を知ったのは,2012年のプログラムがきっかけでした。NHK交響楽団のコンサートマスターの篠崎史紀さんを中心とした特別編成のオーケストラによるベートーヴェンの交響曲第1番・第8番(この2曲は初めての生演奏で聴ききます),そして第7番というオール・ベートーヴェンを聴いたのが最初です。

今回も同じくオール・ベートーヴェンで,第2番(初めての生)・第4番,そして第5番『運命』というプログラムです(プログラム写真)。これでベートーヴェンの交響曲はすべて生で聴くことになるので,10月27日八幡へと向かいました。いつもの通り先頭の車両に乗ると,幸運なことに,そして久しぶりに前方が展望できる車両でした。運転席の後方が空席でしたので,勿論そこに坐りました。そこで気づいたこと(発見したこと)があります。まず,当然かもしれませんが,トンネルには名前が付いているということです。入口(出口)に注目していると,名前が確認できます。その一つに,「子洗」というのがあって,名前の由来が気になりました。

 

篠崎史紀.jpg

 

もう一つは,トンネルもすぐに出口が見えるものから,相当長いものまであります。長いトンネルは入ってしばらくは闇の中を走り,前方に小さな一つの点が見え,それがだんだんと大きくなり前方の風景が確認できて,そして,トンネルは終わります。

川端康成は『雪国』の冒頭で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と表現しました。私にはトンネルの入口では雪は無いか,あったとしても斑模様であった風景がトンネルを抜けたらまさに一面の雪景色に変じた驚きもあるように感じられます。

私は電車の前方の闇を見つめながら,(青春時代の漠とした不安はこういうトンネル状態なのかも知れないな)と考えていました。動いてはいるけれども目的・目標が見えない苛立ち,動いても動いても終点が見えないもどかしさ。そして,トンネルを抜けて広がる風景は入る前とさして変わらない風景への失望。自分は何のためにあの闇の中でもがいていたのか。

私は今だったら,次のように話すだろうな。「風景は変わらない風景ではなく,入口から動いてきた分だけ自分は変化しているはずだよ。ただ,まだその変化を意識できていないだけだよ,そのうちにきっと気づくよ。」

と,いうようなことを考えながら八幡へ向かったのでした。

 

さて,演奏会は総勢41名,曲によってはそれよりも少ない編成での演奏でしたが,わざわざ足を運んだ甲斐はありました。ステージを注意して見ると,交響曲ごとに弦楽器の演奏者の位置が変わったり,特に『運命』では第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが左右対称の位置配列になっていたり,篠崎さんの意図が感じられました。以前何かの音楽番組で,オーケストラ演奏中に指揮者に不慮の事態が生じた場合にコンサートマスターがその代わりを果たすということを聞いたことがあります。今回の演奏を聴いて納得できました。ただ,微妙な強弱やテンポの変化などは指揮者がいないと難しいだろうなと感じました。

アンコール演奏はありませんでしたが,開始前のプレ・ステージコンサートで,篠崎さんが編曲したベートーヴェンの『トルコ行進曲』なども演奏され大満足の秋の一日でした。

 

上で,川端康成の『雪国』を引用しました。門川町の門川ふるさと文化財団が「なつかしの名画劇場」という事業を行っています。昨年,今年と鑑賞しました。今年は岩下志麻主演『五辨の椿』,佐久間良子主演『五番町夕霧楼』,山本富士子主演『夜の河』そして岸惠子主演の『雪国』でした。映画の看板女優の総登場ですが,『雪国』に葉子役で出演していた八千草薫さんの可憐さが印象的でした。ご冥福を祈ります。

 臨床福祉学科 長友道彦でした。

ベートーヴェンはロック?

台風17号に伴う竜巻が延岡市に大きな被害をもたらしました。13年前には,特急列車が横転する被害もありました。前回の時には,当時の同僚のアパートの部屋も窓ガラスが散乱する被害がありました。幸い,本人は実家に帰省していて無事でしたが,部屋にいたら生命も危なかったのではないかという話でした。自然の猛威の恐ろしさを改めて実感し,防災だけでなく,減災ということもより現実的な問題として考えなければならないということを教えてくれました。ちなみに,我が家でも防災バッグを準備しております。

 

さて,私の好きな作曲家はベートーヴェンですが,この8月に2種類の交響曲全集を聴きました。1つは,あの久石譲さんがフューチャー・オーケストラ・クラシックスを指揮した全集(写真  久石譲),もう1組はアダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団(写真 アダム・フィッシャー)です。

 

久石譲.jpg

 

アダム・フィッシャー.jpg

 

今回の題の「ベートーヴェンはロック?」は久石さんの全集のキャッチフレーズ「ベートーヴェンはロックだ!」を借用しました。実際に彼がそう思っているのではなく,「クラシックを聴かない人たちにアプローチを」かけるために敢えて,刺激的な言葉を使用したということです。しかし,ベートーヴェンの交響曲の中のリズムは当時の人たちにとっては,斬新というよりも衝撃的なものであり,現在ある一定の年齢以上の人たち=別名高齢者にとってのプレスリーやビートルズの音楽との出会いと同じではなかったのかなと想像します。

久石譲さんについては宮崎駿監督のジブリ作品をはじめとした映画音楽の作曲家として有名です。私が彼の名と音楽性を知ったのもジブリ作品を通してです。以後,中古CD屋さんで彼のCDを購入して聴きましたが,その時点では映画音楽の作曲家という印象が強すぎて,それらのCDにさほどの感想は持ちませんでした。

数年前から1月号だけを購入している『レコード芸術』の広告などで,久石さんが『新世界』やベートーヴェンの交響曲もCDとして出していることは知っていました。しかし,購入するまでには至りませんでした。その理由は,CDの単価もさることながら,「片手間の(お遊びの)演奏ではないか」という先入観がありましたが,今回全集として発売されたことで,本気なのだと感じた次第です。今回,ベートーヴェンの交響曲を聴くにあたり,以前の作品を聴き直して彼の音楽の幅広さ・奥行きを思い知らされました。特に,『I am』(TOCP-6610 写真2)はヴァラエティに富んだ内容です。特に1曲目の「Deer’s Wind」は「ナウシカ」風の旋律であったり,ラフマニノフを彷彿とさせるフレーズであったり,ポール・モーリアの「蒼いノクターン」的なメロディがあったりして,楽しめます。

 

久石譲2.jpg

さて,このベートーヴェンの交響曲全集を聴いての感想は?とにかく,テンポが速い。「CDが開発された際に収録時間が74分に設定されたのはなぜ?」というクイズがあります。その解の一つが,「ベートーヴェンの交響曲第九」を1枚に収めるためといいます。ところが,久石盤は58分33秒です。また,有名な「運命」はどうか。私が本格的にベートーヴェンの交響曲を聴き始めた頃の最速盤はフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団の演奏で31分13秒,最遅盤はフェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィル盤で38分20秒。久石盤は29分36秒。その差が1分37秒で,ライナーと余り変わらないように見えますが,実は前二者は第4楽章のリピート無しでの演奏時間,こちらはリピートをしての時間ですので,いかに速いかが分かると思います。全集添付の冊子によれば,オーケストラの「フューチャー・オーケストラ・クラシックス」は2016年から長野市芸術会館を本拠地としていた「ナガノ・チェンバー・オーケストラ」を母体としたオーケストラです。長野県には,松本市に小澤征爾さんが主宰する「サイトウ・キネン・オーケストラ」があります。また西の石川県金沢市には「オーケストラ・アンサンブル・金沢」がありますので,その活動によって存在感を示すことは非常に難しいと思いますが,だからこそ,やろうという意気込みが感じられる,キャッチフレーズどおりのリズムが強調された演奏です。今のところ,この全集への評価を新聞では見ていませんが,今後の活動を見守りたいし,実際に生で聴きたい指揮者とオーケストラだと思います。

またクラシック以外の場で活動している人がベートーヴェンの交響曲全集を発表することも滅多にないことではないかと思います。ピアニストやヴァイオリニストによる全集は手元にありますが,久石さんの例は初めてではないかと思います。

もう一つのアダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団も初めて聴く指揮者,デンマークのオーケストラも初めてでしたが,第3番『英雄』の第3楽章に面白い解釈があり,楽しめました。

臨床福祉学科 長友道彦でした。